CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
張温
蜀を褒めすぎて孫権に疎まれ、才が身を滅ぼした呉の名士
張温は、呉郡の名門の出で、「容貌奇偉」と称された呉の名士です。224年、使者として蜀に赴き、諸葛亮と親交を結び、蜀の人々に深く感服されました。帰国後、蜀の政治を賞賛したことで孫権の不興を買い、同郷の暨艶が人事で大勢の恨みを買って自殺に追い込まれると、その推挙者としてともに弾劾されて官を追われ、郷里で死にました。陳寿は「才藻は俊茂だが、智防(身を守る知恵)が備わっていなかった」と評しています。経歴は『三国志』呉書「張温伝」をもとにしています。
呉郡呉の人で、字は恵恕。父の張允は孫権の東曹掾。若くして名を知られ、孫権が顧雍に人物を問うと「当今に並ぶ者はいない」と答えた。孫権が引見して議論すると、見る者はみな心を傾けた。選曹尚書、太子太傅。224年、輔義中郎将として蜀に使いし、諸葛亮と親しく交わり、蜀の人々は張温の才を重んじた。帰国後に蜀の政を褒めたことで孫権は内心不快になり、張温が推挙した選曹郎の暨艶が、人事で郎官の多くを退けて恨みを買い、弾劾されて自殺すると、張温も連坐して官を奪われ、本郡に送り返された。駱統が上疏して弁護したが聞かれなかった。六年後に病死した。弟の張白は陸績の娘・陸郁生を娶り、妹は顧雍の孫・顧承に嫁いだ。
THE WAY OF LIFE
張温の生き方
孫権が顧雍に「張温は誰に比べられるか」と問うた。顧雍は答えた。「当今、並ぶ者はいません」。引見して語り合うと、文辞は流れるようで、見る者は皆、心を傾けた。張昭が張温の手を取って「老夫は君に心を託す。わかってほしい」と言った。
蜀への使者。諸葛亮と語り、蜀の宮廷の人々はこぞって張温を重んじた。帰って孫権に報告するとき、蜀の政治をよいものとして語った。孫権は黙って聞いた。『三国志』は「権は内心これを快しとせず」と書く。張温の人生で一番光っていた旅が、そのまま影の始まりになった。
同郷の暨艶が選曹郎として人事を正そうとし、郎官の多くを退けて恨みを買い、弾劾されて自殺した。暨艶を推挙したのは張温だった。孫権は張温の罪状を自ら数え上げ、「才を頼んで己を忘れ、人を軽んじた」と書いた。駱統が長い上疏で弁護したが、聞かれなかった。官を奪われて郷里に戻り、六年後に死んだ。
持ち味と、その裏側
文才と弁舌、諸葛亮が認めた人物の魅力、蜀との外交を成功させた手腕。一方で、自分の評価がどう受け取られるかに無頓着で、賞賛する相手を選ばず、庇う相手の危うさを見抜けなかった。陳寿の「智防未備」の一語が、この人を言い尽くしている。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
193年〜230年(享年38)
揚州呉郡呉県の人。字は恵恕。父は孫権の東曹掾・張允。弟は張祗・張白(張白の妻は陸績の娘・陸郁生)。
- 呉郡呉の人で、字は恵恕。父の張允は軽財重士で呉郡に名があり、孫権の東曹掾として没した。張温は若くして節操と学問を修め、容貌が人並み外れていた。
- 孫権が「張温は誰に比べられるか」と問うと、大農の劉基は「全琮の仲間でしょう」と答え、太常の顧雍は「劉基は彼をよく知らない。当今に並ぶ者はいません」と答えた。孫権は「それならば張允は死んでいない」と言って召し出し、引見して語り合うと、文辞は占対すらすらと流れ、見る者はみな心を傾け、孫権も敬った。議郎・選曹尚書を経て太子太傅となり、重んじられた。
- 224年、三十二歳で輔義中郎将となり、蜀に使いした。孫権は「蜀への使いは、君が若くて名がまだ遠くに届いていないのを案ずるだけだ」と言った。張温は「私は怠慢で、徳も識も足りませんが、命を受けて行くからには、諸葛亮が人を見る目に長けているのを頼みにします」と答えた。蜀に入ると表を奉じて呉の誠意を述べ、諸葛亮と親しく交わった。蜀の人々は張温の才を重んじた。帰国の送別の席で遅れて来た秦宓に「天に頭はあるか」「耳はあるか」「足はあるか」「姓はあるか」と問い、秦宓が『詩経』を引いてすべて即答し、「天の姓は劉」「日は東に生まれても西に没する」と返すと、張温は大いに敬服した(秦宓伝)。
- 帰国してまもなく豫章の軍に送られて出兵したが、事業は果たせなかった。孫権は、張温が蜀の政治を賞賛したことを内心恨み、またその声名が盛んで人々が惑わされていることを嫌い、いずれ自分の用には立たないと見て、傷つける手立てを考えていた。
- 選曹郎の暨艶は張温が推挙した同郷人で、人事を正そうと郎署の官を厳しく審査し、十人のうち一人も残さぬほど退けて、下級に落とした者も多かった。多くの恨みを買い、「私情で人を上下させた」と弾劾されて自殺した。
- 張温は暨艶・徐彪と意見を同じくし、書簡を交わしていたため、孫権は張温を有司に幽閉し、罪状を列挙する令を下した。暨艶と生死を共にして人事を表裏で操ったこと、豫章で曹丕が淮・泗に出たとき命じても諸将を深山に置いて来なかったこと、殷礼を蜀に連れて行って異国を褒めそやしたこと、「君を御史に推す」と人に恩を売ったことなどを数え、「市朝に晒すには忍びないので、本郡に返して厮吏に充てる。張温よ、罪を免れただけ幸いと思え」と結んだ。
- 駱統が上疏して長く弁護し、「暨艶の過ちを張温に負わせるのは正しくない。張温は蜀で呉の国威を示し、蜀人はみな彼を重んじた。才を妬まれて潰すのは国の損失だ」と説いたが、孫権は聞かなかった。張温は郷里で六年ののち病死した。弟の張祗・張白も才名があったが、ともに廃された。三人の姉妹はみな節行があり、顧承に嫁いだ妹は顧承の死後に丁氏へ再嫁させられ、婚礼の日に薬を飲んで死んだ。
- 陳寿は「張温は才藻俊茂なるも、智防未だ備わらず、以て艱患を致せり(才は見事だったが、身を守る知恵が備わらず、災いを招いた)」と評した。裴松之は「名は公器であり、多く取ってはならない」という荘子の言を引き、「張温の廃された理由は、名を取りすぎたことではないか」と書き、駱統が弁護の中で「世に及ぶ者なし」とまで褒めたのを「燃え盛る火に油を注ぐようなものだ」と評した。諸葛亮は「あの人は清濁の別が明らかすぎ、善悪の分け方がはっきりしすぎる」と言ったと伝わる。
主な出典
『三国志』呉書「張温伝」(張厳程闞薛伝)、「駱統伝」、裴松之注引『会稽典録』『文士伝』。経歴は Wikipedia「張温」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
礼を重んじる名門の士で、使者としての務めは秩序の側ですが、人事では旧弊を正そうとして多くの反発を招き、孫権の意向より自分の判断を通しました。秩序と裁量が同じ重さで並ぶ人として、規律は中立に置いています。
使者として蜀との同盟を固め、人事では能力本位の暨艶を支持しました。国のために動いた人ですが、その賞賛と人選が結果として孫権と群臣の反感を買い、国と自分の双方に不幸をもたらしました。動機は組織のためとして中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。