CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
張晟
一万の兵を集めながら、どこにも属さず崤・澠で戦った河内の群雄
張晟は、河内郡の人で、後漢末の群雄です。一万人余りの兵を集めながら、どの勢力にも属さず、崤山・澠池のあたりで略奪を繰り返しました。建安十年(205年)、并州刺史の高幹が曹操に背くと、南で劉表と通じ、河東の衛固・弘農の張琰らとともに呼応します。杜畿を攻めましたが、城を落とせないまま、鍾繇・馬騰らの軍に敗れました。生没年も、その後の消息も分かりません。経歴は『三国志』などをもとにしています。
河内郡の人。字は不明。後漢末に一万人余りの兵を集めたが、どの勢力にも属さず、崤山・澠池のあたり(現在の河南省西部)で略奪を繰り返し、南では劉表と通じた。建安十年(205年)、高幹が并州で曹操に背くと、河東の衛固・弘農の張琰らが呼応し、張晟も高幹・衛固とともに河東太守の杜畿を攻めた。しかし城を落とせず、諸県を略奪しても得るものはなかった。曹操の命を受けた鍾繇が、馬騰ら関西の諸将を率いて討伐し、張晟らの軍を破り、張琰と衛固を斬った。張晟自身の最期は史書に記されていない。『三国志』龐徳伝に見える「弘農で叛いた張白騎」と同一人物とする説(何焯)もあるが、確定していない。
THE WAY OF LIFE
張晟の生き方
どの勢力にも属さず、一万人余りの兵を養い続けた。曹操は、張晟が崤・澠で略奪して南で劉表と通じ、衛固らがそれに乗じることを恐れ、河東を治められる人材として荀彧に杜畿を推挙させた。
杜畿は、わずかな手勢で河東に入り、数十日で四千人余りを集めて守りを固めた。張晟らはこれを落とせず、諸県を略奪しただけで、鍾繇の大軍に敗れた。
持ち味と、その裏側
無所属のまま一万人を超える兵を集めた動員力。曹操は、張晟が崤・澠で略奪し、南で劉表と通じ、衛固らがそれに乗じることを案じて、荀彧に河東の守りの人材を求めた。一方、杜畿の守る城を落とせず、諸県を略奪しても何も得られないまま敗れた。史料は簡略で、人柄や最期は分からない。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年不詳
河内郡の人。
- 生年不詳: 河内郡に生まれる。後漢末、一万人余りの兵を集めたが、どの勢力にも属さなかった。
- 崤・澠の間: 略奪を繰り返し、南で劉表と通じた。
- 204〜205年: 曹操が河北を平定すると、高幹が并州で背く。曹操は荀彧に「張晟が崤・澠を荒らし、南で劉表と通じている。衛固らがそれに乗じれば、害が深い」と語り、河東の守りとして杜畿を推挙された。
- 205年: 河東の衛固・弘農の張琰が呼応する。張晟は高幹・衛固とともに杜畿を攻めたが落とせず、諸県を略奪しても何も得られなかった。
- 205年: 鍾繇が馬騰らを率いて討伐し、張晟らの軍を破った。張琰と衛固は斬られ、高幹は荊州へ逃げた。
- 以後: 張晟の消息は史書に見えない。
- 異説: 『三国志』龐徳伝に見える「弘農で叛いた張白騎」と同一人物とする説(何焯)がある。杜畿伝は白騎と張晟を別々に記し、確定していない。
主な出典
『三国志』魏書「鍾繇華歆王朗伝」「劉司馬梁張温賈伝」「任蘇杜鄭倉伝」(杜畿伝)。何焯の説は盧弼『三国志集解』による。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・悪
どの勢力にも属さず、略奪で兵を養ったことから、規律は混沌寄りに置いています。
自分の勢力を保つために動いた人物として、動機は自己寄りに置いています。史料が少なく、本人の言葉は残っていません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。