CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
張既
曹魏の雍州・涼州刺史
張既は、馮翊郡高陵県の人で、新豊県令として治績が三輔で第一となりました。建安7年(202年)の河東の戦いでは、馬騰を説得して高幹・張晟の討伐に加わらせ、建安13年(208年)には、馬騰を朝廷に出仕させて、その家族を鄴に移します。建安19年(214年)に夏侯淵とともに宋建を討って隴右を平定し、建安24年(219年)には、劉備の漢中攻めに備えて、氐人五万余を扶風・天水へ移しました。黄初2年(221年)に涼州刺史となり、盧水胡の反乱を平定し、麹光の反乱では、羌族を使って内外から切り崩し、戦わずに平定します。黄初4年(223年)に任地で没し、諡は粛侯です。経歴は『三国志』魏書 劉司馬梁張温賈伝をもとにしています。
馮翊郡高陵県の人。新豊県令として治績は三輔で第一となった。河東の戦いでは馬騰を説得して反乱討伐に加わらせ、のちに馬騰が朝廷へ出仕する際も準備を整えさせた。夏侯淵と共に宋建を討ち、隴右を平定した。黄初年間に涼州刺史となり、麹光の反乱では、羌族を使って内外から切り崩し、戦わずに平定した。黄初4年(223年)に任地で没し、諡は粛侯。
THE WAY OF LIFE
張既の生き方
建安19年(214年)、隴右を平定した時、移住の噂に怯える隴西・天水・南安の三郡に、税を免じ、家屋や水碓を整えさせて民心を落ち着かせた。
黄初2年(221年)、涼州で盧水胡が反乱した際、文帝に「張既でなければ涼州は安んじられない」と託された。金城から黄河を渡って武威を押さえ、顕美で胡人の騎兵を大破した。
持ち味と、その裏側
民心をつかむ統治と、少数で大勢を破る奇策。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜黄初4年(223年)
馮翊郡高陵県(現在の陝西省西安市高陵区)
- 建安元年(196年): 曹操の招聘に応じず。のち茂才に挙げられ、新豊県令となる。
- 建安7年(202年): 河東の戦いで、馬騰を説得して高幹・張晟の討伐に加わらせる。
- 建安13年(208年): 馬騰を朝廷に出仕させ、その家族を鄴に移す。
- 建安16年(211年): 馬超の反乱の後、京兆尹となる。
- 建安19年(214年): 夏侯淵と共に宋建を討ち、臨洮・狄道を平定する。
- 建安20年(215年): 張魯征伐に従い、漢中の民を三輔へ移すよう進言する。
- 建安24年(219年): 劉備の漢中攻めに備え、氐人五万余を扶風・天水へ移す。
- 黄初2年(221年): 涼州刺史となり、盧水胡の反乱を平定する。西郷侯に進む。
- 黄初4年(223年): 任地で没。明帝の時、粛侯と追諡される。
主な出典
『三国志』魏書 劉司馬梁張温賈伝(裴松之注を含む)。曹丕の詔と、陳寿の評を含む。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
規律3のため中立。法より恵政を重んじ、民を安んじることを優先した。
民の不安を取り除くことを第一にした。移住の噂に怯える三郡の民には税を免じて安心させた。動機は他者寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。