CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
張悌
孫呉の丞相
張悌は、荊州襄陽郡の人で、若くして名理で知られ、孫休の時に屯騎校尉となりました。景耀6年(263年)に魏が蜀を攻めたときには、司馬氏の民心掌握を論じ、蜀の滅亡を予言したと伝わります。天紀3年(279年)8月に丞相となり、山都侯に封じられました。翌年、西晋の大軍が来ると、沈瑩・諸葛靚とともに三万の兵で長江を渡り、勝ち目の薄い決戦を選びます。版橋で大敗し、諸葛靚の退却の誘いを拒んで、晋軍に討たれました。経歴は『襄陽耆旧記』と『三国志』呉書 潘濬陸凱伝をもとにしています。
荊州襄陽郡の人。若くして名理で知られ、孫休の時に屯騎校尉となった。天紀3年(279年)に丞相となり山都侯に封じられた。翌年、西晋の大軍が来ると、沈瑩・諸葛靚と共に三万の兵で長江を渡り、勝ち目の薄い決戦を選んだ。版橋で大敗し、諸葛靚の退却の誘いを拒んで、晋軍に討たれた。
THE WAY OF LIFE
張悌の生き方
魏が蜀を攻めた時、司馬氏が民心を得ていることを鋭く分析し、蜀の滅亡を見通した。その分析の鋭さは、のちの晋との戦いの覚悟にも通じる。
天紀4年(280年)、沈瑩の持久論を退けて長江を渡った。降伏してきた張喬を殺すことも退けた。諸葛靚に「今日こそ私の死ぬ日だ」と告げ、殉じた。
持ち味と、その裏側
情勢を分析する眼と、死を覚悟して決断する胆力。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜天紀4年(280年)
荊州襄陽郡(現在の湖北省襄陽市)
- 若い頃: 名理で知られる。孫休の時、屯騎校尉となる。
- 景耀6年(263年): 魏が蜀を攻めた時、司馬氏の民心掌握を論じ、蜀の滅亡を予言する。
- 天紀3年(279年)8月: 丞相となり、山都侯に封じられる。
- 天紀4年(280年): 西晋の侵攻に対し、沈瑩・諸葛靚と三万の兵で長江を渡る。
- 版橋の戦い: 大敗する。諸葛靚の退却の誘いを拒み、晋軍に討たれる。
主な出典
『襄陽耆旧記』(張悌伝)、『三国志』呉書 潘濬陸凱伝、『呉録』、『搜神記』、『建康実録』。『三国志演義』の描写は、正史とほぼ同じ形で伝える。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・善
規律2のため混沌。若くして名声があったが、要職では時流に迎合し、側近を庇ったと『呉録』に伝わる。
呉の滅亡を覚悟しつつ、国に殉じる道を選んだ。ただし、要職では時流に迎合し側近をかばったとも伝わる。動機は他者寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。