CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
張奐
贈り物を拒み、降伏者を生かした辺境の将
張奐は、後漢末の涼州敦煌郡出身の将で、辺境で羌・匈奴・烏桓の反乱に対応しました。羌からの金や馬を返し、董卓が兄に持たせた錦も受け取らなかったと記されます。166年には帰順した南匈奴・烏桓の人々を受け入れ、首謀者だけを処罰しました。一方、168年の竇武・陳蕃事件では偽の命令で竇武を包囲し、のちに事件を悔いて名誉回復を求めました。禁錮中には千人の弟子を養い、『尚書記難』を著したと記されます。
後漢の将。敦煌郡淵泉県の人で、字は然明。辺境の将軍や太守を歴任し、166年には南匈奴・烏桓の帰順を受けた。168年、竇武・陳蕃事件で偽の命令に従い竇武を包囲し、のちに事件を悔いた。181年、78歳で没した。
THE WAY OF LIFE
張奐の生き方
羌からの金と馬を返し、董卓が兄に持たせた錦百匹も受け取らなかった。私利を退けた記録として、信条を高めに置いています。
166年、帰順した集団の首謀者だけを処罰し、残りは受け入れた。『後漢書』はこの処遇を「但誅其首惡,餘皆慰納之」と記します。統率と判断を高めに置いたのは、この記録に基づく読みです。
持ち味と、その裏側
少数の兵を集めて反乱を破った軍事手腕、降伏者を受け入れた統治、武威で賦税を公平にした地方統治の実績。一方で、竇武の包囲は偽の命令によるものとはいえ、結果として忠臣の死に関わった。戦闘での殺害の記録もある。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年は103年または104年とされ、本文では光和4年(181年)に享年78で没したと記される。
涼州敦煌郡淵泉県の人。字は然明。父の張惇は漢陽太守。後年の本籍は弘農郡華陰県。
- 敦煌郡淵泉県の人。父の張惇は漢陽太守だった(『後漢書』本文)。
- 朱寵に師事して『欧陽尚書』を学び、梁冀の府に招かれ、のち議郎となった(『後漢書』本文)。
- 155年、安定属国都尉として南匈奴・東羌の反乱に対応し、少数の兵から兵力を集めて反乱勢力を破った(『後漢書』本文)。
- 159年、梁冀の失脚に連座して免官・禁錮された。禁錮中、皇甫規が前後七度にわたって推薦した(『後漢書』本文)。
- のち武威太守を経て度遼将軍となった。皇甫規は自らの後任に張奐を推薦し、朝廷がこれを認めた(『後漢書』本文)。
- 166年、大司農となり、護匈奴中郎将として北方の反乱に対応した。匈奴と烏桓が帰順し、その人口は合わせて「凡二十萬口」に及んだ。張奐は首謀者だけを処罰し、残りは受け入れた(『後漢書』本文。20万は人口で、兵の数ではない)。
- 167年、部下の尹端と董卓を派遣して東羌・先零羌を討たせた。董卓が張奐の指揮下にいたことは、『三国志』董卓伝にも記される。
- 董卓が兄に錦百匹を持たせて贈ったが、張奐は「奐惡卓為人,絕而不受」として受け取らなかった(『後漢書』本文)。『後漢紀』は董卓の奸悪を見抜いて絶交したと、より踏み込んで記す。
- 168年、宦官の曹節らの偽の命令で竇武を包囲し、竇武は自殺、陳蕃も殺された。張奐は事情を知らなかったと記されるが、包囲したことは事実として記録されている(『後漢書』本文)。
- 事件を悔いて与えられた侯爵を辞退し、竇武と陳蕃の名誉回復と遺族への措置を求めた(『後漢書』本文)。
- 禁錮中は門を閉ざして外出せず、千人の弟子を養い、『尚書記難』三十余万言を著したと記される(『後漢書』本文)。
- 光和4年(181年)、78歳で没した。遺命で簡素な葬儀を望み、武威では祠が長く残ったと記される(『後漢書』本文)。死因の記録はない。
- 後世の創作として、『後漢演義』では竇武事件の場面に登場し、作者は張奐の責任を厳しく批判している(小説であり史実ではない)。『蒼天航路』では黄巾の乱で戦死する設定があるが、これは正史と異なる創作。
主な出典
『後漢書』巻65 皇甫張段列伝(張奐伝)、『三国志』巻6 董卓伝(董卓が張奐の指揮下にいたこと)、『三国志』巻1 武帝紀の裴松之注(『続漢書』、曹騰による推薦の記事)、『後漢紀』巻23(後世の編年体史書。より踏み込んだ評価を含む)、『後漢演義』(近代の小説)
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
武威での賦税の公平化や、人命を守る政策など、統治の記録は法と秩序を重んじる方向にあるため、規律は秩序寄りとしています。ただし、偽の命令に従った件は判断の誤りとして評価を分けています。
降伏者のうち首謀者以外を赦したこと、羌と董卓からの贈り物を受け取らなかったこと、竇武と陳蕃の名誉回復を求めたことなど、私利より他者や公を優先した記録が複数あるため、動機は他者寄りに置いています。ただし、竇武の包囲は偽の命令によるもので、その時の判断の根拠は史書に明確ではありません。本人の内心は書かれていません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。