CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
崔琰
「死をもって守る」と封もせず答え、曹操に畏れられて死を賜った清河の名士
崔琰は、字を季珪といい、清河郡東武城の人で、後漢末から魏の名士です。若い頃は撃剣を好む無口な若者でしたが、二十三歳で学問に目覚め、鄭玄に学びました。袁紹に仕えたのち、曹操のもとで人材の選考を任され、世子の曹丕の教育にもあたります。曹丕と曹植のどちらを後継ぎにするか曹操が密かに問うたとき、ただ一人封をせずに「長子を立てるべきです。私は死をもってこれを守ります」と答えました。堂々とした姿で曹操にも畏れられましたが、216年、一通の手紙を咎められて死を賜りました。経歴は『三国志』魏書をもとにしています。
字は季珪。清河郡東武城の人。若い頃は飾り気がなく口下手で、撃剣を好み、武事を尊んだ。二十三歳で郷里から兵役に回されたのをきっかけに発奮し、『論語』『韓詩』を読みはじめる。二十九歳で公孫方らと鄭玄に学んだが、一年もたたないうちに黄巾が北海を破り、鄭玄は門人を解散した。西への道は盗賊でふさがれ、青・徐・兗・豫の野をめぐり、寿春から長江・洞庭のあたりまで見て、四年ぶりに家へ帰り、琴と書物を楽しんだ。袁紹に招かれ、兵の墓荒らしを諫めて騎都尉となる。天子が許にいる今は境を守って朝廷に仕えるべきだと説いたが聞かれず、袁紹は官渡で敗れた。袁紹の死後、二人の息子が争って崔琰を求めたが、病と称して断り、獄に入れられ、陰夔・陳琳の働きで助かった。曹操が冀州牧となると別駕従事に招かれ、戸籍の数を喜ぶ曹操を正面から諫めた。曹丕の守り役、丞相府の東曹・西曹の掾属、魏国の尚書、中尉を務め、毛玠とともに人材の選考を担った。216年、推薦した楊訓に宛てた手紙を「傲慢で、恨みを含む」と訴えられ、刑徒に落とされたのち、死を賜った。
THE WAY OF LIFE
崔琰の生き方
曹操に冀州の戸籍を見て「三十万の兵が得られる。大きな州だ」と言われると、「天下は崩れ、袁氏の兄弟は争い、冀州の民の骨は野にさらされています。仁の声を先に届けず、兵の数を数えるのが先とは、州の民が明公に望んでいることでしょうか」と答えた。曹操は顔を改めて詫び、居合わせた客はみな青ざめた。
曹操の留守に、曹丕は服や車を替えて狩りに夢中になった。崔琰が書を送って諫めると、曹丕は「狩りの網はもう壊し、狩りの服も脱ぎました。また同じことがあれば、教えてください」と返した。
持ち味と、その裏側
まっすぐさと、人を見る目。声も姿も堂々として、眉目が涼やかで、髭は四尺。朝廷の人々に仰ぎ見られ、曹操さえ敬い畏れた。毛玠とともに人材を選び、世の士はみな名節を磨いたという。友人の司馬朗に、弟の司馬懿は「あなたの及ぶところではない」と言い続け、親類にも軽んじられた従弟の崔林を「大器晩成」と評し、孫礼と盧毓を「三公の器」と見た。のちに崔林・孫礼・盧毓はみな宰相の位に至った。早世した友人の公孫方・宋階の遺児を、我が子のように育てた。陳寿は「崔琰は人品の高さが最も優れていたが、身を全うできなかった。惜しいことだ」と評している。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜216年
清河郡東武城の人。字は季珪。従弟に崔林がいる。
- 若い頃: 口下手で撃剣を好み、武事を尊んだ。
- 二十三歳: 郷里から兵役に回されて発奮し、『論語』『韓詩』を読みはじめる。
- 二十九歳: 公孫方らと鄭玄に学ぶ。一年もたたず黄巾が北海を破り、鄭玄は門人を解散した。
- その後の四年: 西への道がふさがれ、青・徐・兗・豫の野をめぐり、寿春、長江・洞庭のあたりまで旅して帰郷した。
- 袁紹のもとで: 兵の墓荒らしを諫め、骨を葬るよう説いて騎都尉となる。天子のいる許に従うべきだと説いたが聞かれず、袁紹は官渡で敗れた。
- 袁紹の死後: 袁譚・袁尚の兄弟がともに崔琰を求めたが、病と称して断り、獄に入れられる。陰夔・陳琳の働きで助かった。
- 205年頃: 曹操が冀州牧となり、別駕従事に招かれる。戸籍の数を喜ぶ曹操を諫め、曹操は詫びた。
- 206年頃: 曹操の并州遠征の間、鄴で曹丕の守り役となり、狩りに夢中の曹丕を書で諫めた。
- 208年: 曹操が丞相となり、東曹・西曹の掾属となる。毛玠とともに人材の選考を担った。
- 213年: 魏国が建てられ、尚書となる。後継ぎを密かに問われ、ただ一人封をせずに「長子を立てるべきです。私は死をもってこれを守ります」と答えた。曹植は崔琰の兄の娘婿だった。曹操はその公正さに嘆息し、中尉に移した。
- 匈奴の使者が来たとき: 曹操は堂々とした崔琰を自分の代わりに座らせ、自らは刀を持って傍らに立った。使者はのちに「魏王は見事な方だが、そばで刀を持っていた人こそ英雄だ」と言ったという(『世説新語』)。
- 216年: 曹操が魏王となり、崔琰が推した楊訓が曹操を称える上表をした。人々が楊訓を笑うと、崔琰は楊訓に「表を読んだ。よい出来だ。時よ時よ、いずれ変わる時が来る」と書き送った。これを「傲慢で、恨みを含む」と訴えられ、刑徒に落とされたが、屈する様子はなかった。曹操は「刑を受けても客と通じ、髭を巻いて客をにらみ、怒りを含んでいるようだ」として、死を賜った。
- のち: 崔琰の死は世に深く惜しまれ、陳寿の時代にもなお冤罪と言われていた。親友の毛玠は、その死を内心喜ばなかった。
- 『三国志演義』では: 曹操の魏王進位に反対して獄に入り、獄中で曹操を罵って杖で打ち殺される。
主な出典
『三国志』魏書「崔毛徐何邢鮑司馬伝」(崔琰伝)と、その注。捉刀の話は『世説新語』容止篇。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
「春秋の義では長子を立てる」と礼法を盾に後継ぎを論じ、それを死をもって守ると誓ったことから、規律は秩序寄りに置いています。
民の暮らしを先に考えるよう主君を諫め、友人の遺児を我が子のように育てたことから、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。