CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
孫韶
若くして京城を守り、魏との境を守った人
孫韶は、呉の宗室の将です。孫河の甥で、17歳で京城を守り、のち鎮北将軍として広陵方面で長く魏との境を預かりました。『三国志』が伝えるのは、兵をよく養い、斥候で魏の動きを探って備えを整えた姿です。ここでの人物像は記録からの読みで、悪い面を示す記録がほとんど見当たらない、という点も含めて書いています。
孫河の甥で、字は公礼。17歳で京城を守り、のち鎮北将軍として広陵方面で魏との境を長く守った。
THE WAY OF LIFE
孫韶の生き方
17歳で、殺された孫河の残した兵をまとめ、京城の守りを整えた。統率と決断の高さは、本文に残るこの実績に基づく読みです。
長く境にいて、遠くへ斥候を出して魏の動きを探り、備えを整えた。構想と規律の高さは、この慎重な守りに基づく読みです。
持ち味と、その裏側
兵を養って命がけの働きを得る人望と、斥候で敵の動きを先に知る慎重さ。一方で、悪い面を示す記録がほとんど見当たらず、同じ重さでは書けない人物でもあります。戦争に参加した武将である点は他の将と変わりません。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜赤烏4年(241年)
呉の宗室。孫河の甥。字は公礼。
- 字は公礼。本文は、伯父の孫河(字は伯海)がもと俞氏で、孫策に愛されて孫姓を賜り、一族に加えられたと記す。注に引く『呉書』は、孫河はもと孫堅の同族で、俞氏の後を継いで俞姓を名乗り、のち孫姓に復したと説明する。孫韶が孫河の養子だったとは書かれておらず、実父の名もこの伝では確認できない。
- 孫河が妫覧・戴員らに殺されると、韶は17歳で河の残した兵を集め、京城(京口)の備えを整え、楼櫓を建て、武器を修理した(本文)。
- 孫権が夜、京城のそばに陣を構えて試しに攻めると、守兵は城壁に上がって警戒を伝え、声をあげて応戦し、城外の人々にまで射かけたため、孫権が事情を告げてようやく止まった。翌日、孫権は韶を高く評価して承烈校尉とし、河の旧部隊を率いさせた(本文)。夜の試しで味方に射かけた場面もあり、完璧な判断だったと言い切る必要はない。
- のち広陵太守・偏将軍、揚威将軍となり建徳侯に封じられ、孫権が皇帝となると鎮北将軍に進んだ。長く魏との境を守り、斥候を遠くへ出して敵の動きを探り、備えを整えたため大きな敗北が少なかったと、本文は記す。青州・徐州、汝南・沛方面から呉に帰順する人々が現れ、淮南の魏の守備隊は長江沿いから遠くへ退いた、ともある。
- 本文は「士卒をよく養い、その死力を得た」と評する。ただし、具体的にどのような施しをしたかは記されていない。
- 孫権が建業に戻って久しぶりに会ったとき、青州・徐州方面の守りの拠点、地形、兵馬の数、魏の将軍たちの名を尋ねると、韶はすべて答え、孫権は喜んだ(本文)。
- 黄武4年(225年)冬、魏の曹丕が広陵に進出したとき、韶は部将の高寿らに決死の兵500人を率いさせ、曹丕の帰路を夜襲させた。曹丕は驚き、高寿らは副車の羽蓋を奪って帰ったという。これは本文ではなく、呉主伝の注に引く『呉録』の記述で、呉側の戦果の報告である。韶自身が敵陣に突入した話ではない。
- 嘉禾3年(234年)、孫権が合肥新城を囲んだとき、韶は張承とともに広陵・淮陽方面へ向かったが、魏の明帝が水軍を率いて東へ出ると、孫権とともに作戦を止めた(呉主伝・本文)。韶が明帝の軍と直接戦ったという記述は確認できない。
- 赤烏4年(241年)に亡くなった。享年は記されていない。最後の官は鎮北将軍・領幽州牧・仮節、封は建徳侯で、子の孫越が継いだ(本文)。
- 孫河の死にまつわる孫翊の妻徐氏の復讐は、注に引く『呉歴』などの記述で、韶自身の功績ではない。
- 陳寿の評は宗室全体についての評で、孫韶個人の名は挙げていない。宗族が国家の支えとなり、ある者は創業を助け、ある者は辺境を守った、と評価する。
主な出典
『三国志』呉書 宗室伝(孫韶伝、裴松之注に引く『呉書』『会稽典録』『呉歴』)、呉書 呉主伝(裴松之注に引く『呉録』)
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
斥候や備えを重んじ、大きな敗北が少なかったという記録から、規律は秩序寄りとしています。
兵をよく養い、境の備えを整え続けた行動は、守りを固める方向に揃っています。ただし、本人の内心が書かれているわけではありません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。