CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
孫静
宗族五六百人を集め、査瀆から敵の背後を突く策を授けた人
孫静は、孫堅の末の弟、孫策・孫権の叔父です。孫堅が挙兵したとき、郷里の人と宗室の五六百人を集めて、その土台をつくりました。196年、孫策が会稽の王朗を攻めあぐねると、「査瀆から敵の背後に出よ」と策を授けます。孫策は、水を澄ます瓦缶と夜の火で王朗を欺き、会稽を平らげました。孫策が重い官を授けようとしても、孫静は故郷を離れたがらず、そこで一生を終えました。経歴は『三国志』呉書「宗室伝」をもとにしています。
呉郡富春の人で、字は幼台。孫堅の季弟(末の弟)。孫堅が義兵を起こすと、郷里の人と宗室の五六百人を糾合して保障とし、みな孫静に従った。196年、孫策が劉繇を破って諸県を平定し、会稽に進攻すると、人を遣って孫静を招いた。孫静は家族を連れて銭唐で孫策と会った。会稽太守の王朗は固陵で孫策を拒み、孫策は何度も水を渡って戦ったが勝てなかった。孫静は言った。「王朗は険を頼んで城を守っており、たやすくは抜けません。査瀆は、ここから南に数十里、道の要路です。そこから敵の背後に拠るのがよい。兵法に言う、備えのないところを攻め、意表を突くことです。私が自ら軍の前隊を率いれば、必ず破れます」。孫策は「よい」と言い、軍中に偽って告げた。「近ごろ長雨で水が濁り、兵がこれを飲んで腹痛を起こしている。瓦缶を数百口用意して、水を澄ませ」。黄昏になって、多くの火をともして王朗を欺き、軍を分けて夜に査瀆の道から高遷屯を襲った。王朗は大いに驚き、もと丹陽太守の周昕らを出して迎え撃たせたが、孫策は周昕らを破って斬り、会稽を平定した。王朗は逃げ、虞翻が従って守り、海を越えて東冶に着いたが、孫策が追撃して大破し、降った。孫策は上表して孫静を奮武校尉に任じ、重任を授けようとしたが、孫静は墓や宗族のある故郷を恋しがり、出仕を望まず、留まって守ることを求めた。孫策は許した。200年、孫権が政務を執ると、就地で昭義中郎将に遷され、孫静は故郷の家で終えた。子に孫暠・孫瑜・孫皎・孫奐がいる。
THE WAY OF LIFE
孫静の生き方
孫堅が兵を挙げた。孫静は郷里を回って、宗族の五六百人を集めた。兄の軍の、最初の土台になった。みな、孫静のもとに集まった。
会稽の固陵で、孫策は王朗に何度も阻まれた。叔父の孫静が言った。「王朗は険を頼んで守っています。ここから南へ数十里に、査瀆があります。そこから背後に出ましょう。備えのないところを攻め、意表を突くのです。私が自ら前隊を率います」。孫策は軍中に告げた。「連日の雨で水が濁り、兵が腹を壊している。瓦缶を数百、水を澄ませるために用意せよ」。夕暮れに、数えきれない火がともった。
孫策は、叔父に重い官を授けようとした。孫静は断った。「墓も宗族も、ここにあります。私は、故郷を守っていたいのです」。孫策は許した。孫権の代になっても、昭義中郎将の位を受けながら、孫静は故郷を出ず、そこで終えた。
持ち味と、その裏側
宗族と郷里を束ねる信望と、前線に出る力。孫堅の挙兵では土台をつくり、孫策の会稽攻めでは、査瀆の策と、自ら前隊に立つ覚悟を示した。権力の座を望まず、故郷の暮らしを選んで生涯を終えた。陳寿は、宗室の人々が国を支える城だとして、詳しく記している。一方で、戦う力を持ちながら官にとどまらなかったため、大きな役割は残さなかった。控えめさと、広がらない活躍が、同じ根から出ている人。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜没年不詳(200年以後、故郷で没す)
揚州呉郡富春県の人。字は幼台。孫堅の末の弟。孫策・孫権の叔父。子に孫暠・孫瑜・孫皎・孫奐。
- 呉郡富春の人で、字は幼台。父は孫鍾、兄に孫羌・孫堅。孫堅の末の弟で、孫策・孫権の叔父にあたる。
- 孫堅が兵を挙げると、孫静は郷里の人と宗室の五六百人を集めて保障とし、みなが従った。
- 196年、孫策が劉繇を破って諸県を平定し、会稽に進攻すると、人を遣って叔父の孫静を招いた。孫静は家族を連れて、銭唐で孫策と会った。会稽太守の王朗は固陵で孫策を拒んでおり、孫策は何度も水を渡って戦ったが、勝てなかった。
- 孫静は孫策に言った。「王朗は険を頼んで城を守っており、すぐには抜けません。査瀆はここから南に数十里、道の要路です。そこから敵の内側に拠るのがよい。いわゆる、備えのないところを攻め、意表を突く策です。私が自ら軍の前隊を率いれば、必ず破れます」。孫策は「よい」と言った。
- 孫策は軍中に偽って告げた。「近ごろ連日の雨で水が濁り、兵がこれを飲んで腹痛を起こす者が多い。瓦缶を数百口用意して水を澄ませよ」。夕方になって、多くの火を連ねてともし、王朗を欺き、軍を分けて夜に査瀆の道から高遷屯を襲った。
- 王朗は大いに驚き、もと丹陽太守の周昕らに兵を率いて迎え撃たせた。孫策は周昕らを破って斬り、会稽を平定した。王朗は逃げ、虞翻が従って護り、海に浮かんで東冶に至ったが、孫策がこれを追って大破し、王朗は降った。
- 孫策は上表して孫静を奮武校尉に任じ、重い任を授けようとしたが、孫静は先祖の墓や宗族の暮らす故郷を恋しがり、出仕を楽しまず、留まって守ることを求めた。孫策はこれに従った。
- 200年、孫策が没すると、孫静の長子の孫暠は江東の大権を握ろうとしたが、虞翻に説かれて退いた。孫権が政務を執ると、孫静は就地で昭義中郎将に遷され、故郷の家で終えた。
- 陳寿は『三国志』で、「親を親しむ恩義は古今の常で、宗子は維城と詩人も称える。まして、この宗室の孫たちが、あるいは初基を助け、あるいは辺境を鎮守して任に堪え、その栄えを辱めなかったのは、なおさらである。ゆえに詳しく記す」と述べている。
主な出典
『三国志』呉書「宗室伝」、『資治通鑑』巻六十二。経歴は 百度百科「孫静」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・中立
孫策に任官を勧められても断り、自分の望む形で故郷に留まりました。形式の官位より、自分の裁量で暮らし方を選んだ人として、規律は裁量寄りに置いています。
宗族と郷里のつながりを何より大事にした人です。孫策の勝利のために策を出しながら、官位は求めませんでした。個人の栄達ではなく、家と郷里のために動いたとして、動機は中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。