CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
孫翊
兄・孫策に最も似ていると言われ、二十歳で殺された孫家の三男
孫翊は、孫堅の三男で、孫策・孫権の弟です。「驍悍果烈にして兄策の風あり」と評され、孫策が死の床についたとき、張昭らは兵を孫翊に託すべきだと考えました。孫策は孫権を呼んで印綬を帯びさせました。二十歳で丹陽太守となりましたが、気性が激しく部下を叱りつけ、恨みを買った媯覧・戴員の差し金で、宴の見送りに酔って刀を持たずに出たところを辺鴻に斬られました。妻の徐氏が仇を討ちます。経歴は『三国志』呉書「孫翊伝」をもとにしています。
呉郡富春の人で、字は叔弼。別名は儼。孫堅と呉夫人の子で、孫策・孫権の弟。192年に父が死ぬと母と丹陽に移った。孫権とともに朱治に孝廉に挙げられ、曹操からも礼をもって辟された。200年、孫策が死の床で、張昭らは性格が孫策に似た孫翊に兵を託すべきだと言ったが、孫策は孫権を呼んで印綬を帯びさせた。気性が峻急で喜怒を顔に出し、朱治がたびたび道義を説いて諌めた。203年、二十歳で偏将軍・丹陽太守。旧盛憲の部下だった媯覧を大都督、戴員を郡丞に迎えたが、たびたび叱責して恨まれた。204年、孫権が黄祖を討って留守の間、諸県の長吏を集めた宴で、妻徐氏の占いが凶と出たのに客を送りに出て、酔って刀を持たないところを左右の辺鴻に斬られた。二十一歳。徐氏と側近の孫高・傅嬰が媯覧・戴員を討ち、首を墓に供えた。息子の孫松は孫権に最も愛された甥となった。
THE WAY OF LIFE
孫翊の生き方
兄の孫策が死の床で、張昭たちは言った。「兵は儼(孫翊)に」。いちばん兄に似ているのは三男だと、誰もが思っていた。孫策は、孫権を呼んだ。似すぎていることが、選ばれなかった理由だったのかもしれない。
怒ればすぐ顔に出て、気に入らなければその場で叱りつける。朱治が何度も道義を説いたが、二十歳の太守は変わらなかった。叱られた媯覧と戴員は、恨みを溜めた。
宴の前に、妻の徐氏が占った。凶。「今日はやめてください」。孫翊は「長吏たちをもう長く待たせている、早く帰してやろう」と言って、客を送りに出た。いつも手放さない刀を、酔っていたので持たなかった。背後から辺鴻が斬った。郡中みな忙しく、誰も助けに来なかった。
持ち味と、その裏側
兄に似た勇猛さと決断の速さ、二十歳で一郡を任される器量。一方で、感情を抑えられず部下を敵に回し、妻の忠告を聞かず、刀を持たずに門を出た。長所と短所が同じところから出ている人。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
184年〜204年(享年21)
揚州呉郡富春県の人。字は叔弼、別名は儼。孫堅の三男、孫策・孫権の弟。妻は徐氏。
- 184年、孫堅の三男として生まれた。192年、父が黄祖との戦いで死ぬと、孫策は一家を江都に移し、張紘に「老母と弱い弟を委ねる」と言って袁術のもとへ向かった。孫翊は母とともに丹陽に移り、のち朱治が曲阿から母と幼い弟たちを迎えた。
- 孫権とともに朱治に孝廉に察挙され、曹操も礼をもって辟した。『三国志』は「驍悍果烈、兄策の風あり」と記す。
- 200年、孫策が死の床についたとき、張昭らは、性格が孫策に似ている孫翊に兵を託すべきだと考えた。孫策は孫権を呼び、印綬を帯びさせた(『典略』)。
- 性格は峻急で、喜怒をそのまま顔と行いに出した。朱治がたびたび責め、道義をもって諭した(「朱治伝」)。
- 203年、舅の呉景が亡くなると、偏将軍として丹陽太守を領した。二十歳だった。かつての盛憲の部下であった媯覧を大都督として兵を督させ、戴員を郡丞に迎えた。二人は側近の辺鴻と親しく、孫翊にたびたび叱責されて恨み、謀叛を企てた。孫権が江夏の黄祖を討ちに出た隙をうかがった。
- 204年、丹陽諸県の令長が一斉に孫翊のもとへ会しに来た。孫翊は妻の徐氏に宴の吉凶を占わせ、徐氏は凶と出たので宴をやめるよう勧めた。孫翊は「長吏たちをもう長く留めている、早く帰してやるべきだ」と言って客を送りに出た。ふだん出入りには必ず刀を持っていたが、酔っていたため手ぶらで出た。辺鴻が背後から斬った。郡中はみな忙しくしていて、救う者がなかった。
- 辺鴻は山中に逃げたが、徐氏が追わせて捕らえた。媯覧と戴員は罪をすべて辺鴻に押しつけて殺したが、丹陽の兵士はみな、黒幕は二人だと見ていた。
- 媯覧と戴員は、孫権と孫翊の仲が近かったことを知り、見舞いに来た宗室の重臣孫河を殺して、丹陽を曹操配下の劉馥に献じようとした。媯覧は将軍府に入って孫翊の妾を奪い、徐氏にも迫った。徐氏は偽って応じ、孫翊の旧将・孫高・傅嬰・徐元と計を定めて媯覧・戴員を討ち、首を孫翊の墓に供えた。孫権は呉に戻ると、媯・戴の遺族をことごとく誅した(『呉歴』『会稽典録』)。
- 息子の孫松は字を子喬といい、射声校尉・都郷侯。孫権は甥たちの中でもっとも孫松を親しんだが、231年に没した。陳寿は宗室伝の末尾で「親しきを親しむ恩義は古今の常。この諸孫は、あるいは創業を助け、あるいは辺境を鎮め、よくその任に堪えた」と記している。
主な出典
『三国志』呉書「孫翊伝」(宗室伝)、同注引『典略』『呉歴』『会稽典録』、「朱治伝」。経歴は 百度百科「孫翊」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・中立
郡の長吏を集め礼で部下を迎えた一方、喜怒をそのまま行動に移し、諌めも占いも退けました。規律より気性で動いた人として、裁量寄りに置いています。
二十歳で一郡を預かり、兄の覇業のために丹陽を鎮めようとした一方、感情のままに部下を叱り、身を危うくしました。家と国のための立場にあって、動機そのものは一方に定めがたい人として、中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。