三國志人物鑑 CHRONICLES OF YOUR SOUL

THE ADDITIONAL CHRONICLE

逸伝篇について

本編の108人に入りきらなかった人物を、あとから書き足していく追加篇です。ONにすると、診断の候補と人物図鑑に、逸伝篇の人物が加わります。

ONとOFFで変わること

OFFのときは、本編108人だけが対象です。ONにすると、診断の結果に逸伝篇の人物が出ることがあり、図鑑にも「逸伝」の一覧と「隠れた人々」が増えます。結果は、ONかOFFかで変わることがあります。

切り替えについて

この画面の上のスイッチで、いつでも切り替えられます。診断の途中で切り替えても、回答は残ります(結果の候補だけが、結果が出る時点の設定になります)。既読の記録は、ONでもOFFでも保たれます。初期設定はOFFです。

人物について

逸伝篇には、史書に記録の少ない人物や、『三国志演義』などの物語の中で知られる人物も含まれます。物語の人物は、人物ページにそのことと出典を書いています。人物像やアラインメントは、本編と同じく、本サイト独自の解釈です。

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CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇

孫綝

皇帝を二人廃し立てたが、立てた皇帝に宴の席で捕らえられた呉の権臣

孫綝は、字を子通といい、呉の宗室で、孫峻の従弟です。太平元年(256年)に孫峻が没すると、後事を託されて朝政を代行し、呂拠と滕胤が起こした動きを、三族まで滅ぼして退けました。大将軍・永寧侯となりましたが、太平2年(257年)、諸葛誕の救援に失敗し、再出撃の命令を拒んだ朱異を、鑊里で斬ります。陳寿は「兵を失い、名将を自ら殺して、怨まれない者はなかった」と記しました。太平3年(258年)に孫亮を廃して孫休を立てましたが、孫休と対立し、永安元年12月(259年1月)、張布・丁奉らに捕らえられて殺されます。享年28とされます。経歴は『三国志』呉書 孫綝伝・三嗣主伝をもとにしています。

字は子通。従兄の孫峻の死後に実権を継ぎ、呂拠・滕胤を退けて大将軍となった。諸葛誕の救援に失敗し、朱異を処刑して不満を招いた。258年に孫亮を廃して孫休を立てたが、孫休と対立し、259年に張布・丁奉らに捕らえられて殺された。

THE WAY OF LIFE

孫綝の生き方

孫峻の後を継いだ時点で、まだ20代半ばだった。先に動いて政敵を倒す決断は速いが、その先の構想は見えにくい人物です。

皇帝を廃し、新帝に疑いを向けられると武昌への出鎮を願い出た。信条と規律は低めに置いています。

持ち味と、その裏側

孫峻の死の直後に呂拠・滕胤を退け、孫亮の暗殺計画を先に察知して宮城を囲むなど、先手を打つ決断の速さ。一方で、諸葛誕の救援では主力を寿春から遠ざけ、朱異を処刑して軍の信頼を失った。礼を軽んじる行いも多く、信条と規律は低くなった。

IN THE CHRONICLES

史実・物語の歩み(概略)

231年(232年とも)〜永安元年12月(259年1月)

呉の宗室。字は子通。曾祖父は孫静、祖父は孫暠、父は孫綽。孫峻の従弟。弟に孫恩・孫据・孫闓ら。永寧侯。

  1. 呉の宗室の出身で、字は子通、呉郡富春県の人。孫堅の弟・孫静の曾孫で、祖父は孫暠、父は孫綽。孫峻は祖父を同じくする従兄にあたる。生年は日本語版Wikipediaが232年、英語版と百度百科は231年とし、没年は永安元年12月戊辰(259年1月)、享年28とされる。
  2. 太平元年(256年)9月、孫峻が魏への遠征のさなかに没し、偏将軍だった孫綝に後事を託した。孫綝は侍中・武衛将軍となり、中外の諸軍事を領して朝政を代行し、前線の軍を呼び戻した。
  3. 前線にいた呂拠はこれを聞いて大いに怒り、文欽・唐咨らと連名で、滕胤を丞相に推す上表をした。孫綝は滕胤を大司馬にして、亡くなった呂岱の後の武昌に出そうとした。呂拠は軍を率いて建業へ戻り、滕胤と孫綝を廃する計画を伝えた。
  4. 孫綝は従兄の孫憲(孫慮とも)に丁奉らを付けて江都で呂拠を迎え撃たせ、文欽らにも詔で攻撃させた。滕胤は都で動いたが、半夜に宮の蒼龍門へ兵を出すことをためらった。夜が明けても呂拠は来ず、孫綝の軍が総攻撃をかけて滕胤と将兵数十人を殺し、三族を滅ぼした。呂拠も新州で捕らえられて自害し、三族を滅ぼされた。
  5. 孫綝は大将軍・仮節・永寧侯となった。従兄の孫憲は、孫峻のときには厚く遇されたのに、孫綝から薄く遇されて怒り、王惇とともに孫綝を殺そうとした。孫綝は王惇を殺し、孫憲に毒を飲ませて自殺させた。
  6. 太平2年(257年)、魏の諸葛誕が寿春で挙兵して呉に降ると、孫綝は文欽・唐咨・全端らを送り、朱異に3万を率いさせたが、朱異は魏軍に敗れ、輜重を焼かれた。孫綝は鑊里まで出て、さらに3万を預けて死戦を命じたが、朱異は従わなかった。
  7. 孫綝は怒って朱異を呼びつけた。陸抗が止めたが、朱異は「子通(孫綝)は家の者だ。何を疑うことがあろう」と言って向かい、力士に引きずり立てられ、「我は呉の忠臣だ。何の罪があるのか」と叫びながら、鑊里で斬られた。孫綝は弟の孫恩を救援に出したが、諸葛誕は敗れ、寿春は落ちた。陳寿は「諸葛誕を救えず、兵を失い、名将を自ら殺して、怨まれない者はなかった」と記す。
  8. 西の守りにいた朱績は、孫綝のもとで呉が乱れ、魏に付け入られることを恐れ、密書を蜀へ送り、呉を併せる備えをさせたと『三国志』は記す。
  9. 孫綝は建業へ戻ると、孫亮が親政を始めており、朱異を殺したことを咎められた。病と称して朝見せず、朱雀橋の南に屋敷を築き、弟の孫据に蒼龍門の宿衛をさせ、孫恩・孫干・孫闓にそれぞれ営を分けて預け、朝政を握って身を守ろうとした。
  10. 太平3年(258年)、孫亮は、孫魯育(朱公主)が孫峻に殺された経緯を調べ直し、朱熊・朱損を責めた。孫綝は入って取りなしたが退けられ、丁奉が二人を殺した。朱損の妻は孫峻の妹で、孫綝はいっそう孫亮を恐れた。孫亮は孫魯班・全尚・劉承らと孫綝を除く相談をしたが、孫亮の妃(孫綝の従姪にあたる)が孫綝に知らせた(全尚が妻の孫氏、孫綝の従姉に漏らしたとする説もある)。
  11. 孫綝は夜のうちに全尚を捕らえ、弟の孫恩に劉承を蒼龍門の外で殺させ、宮を囲んだ。孟宗に宗廟で報告させ、百官を集めて「少帝は荒病で、大位に居れない」と告げ、皆が震えて「将軍の命のままに」と答えた。尚書の桓彝は署名を拒んで殺された。孫亮は会稽王に落とされた。
  12. 孫綝は施正の勧めで琅邪王の孫休を迎え、宗正の孫楷に書を持たせた。書には、孫亮が劉承に近づき、美女を宮中に集め、18歳以下の兵の子弟3千人を苑で調練し、武器庫の矛戟5千余を遊具にし、金銀で飾った小船300余艘を造らせたことなどが並ぶ。全尚は流刑の途上で殺され、全公主は豫章へ移された。
  13. 孫綝は志を得て振る舞いを抑えなくなり、伍子胥の廟を焼き、各地の仏寺を壊して僧を斬ったと百度百科は記す。孫休の即位後、孫綝は印綬を返す上書をし、孫休は慰めて丞相・荊州牧とし、五県を加えた。孫恩は御史大夫・衛将軍、孫据は右将軍となり、一門から五人が侯となって禁軍を握り、権勢は皇帝をしのいだ。
  14. 『三国志』は、孫綝が牛と酒を孫休に献じて受け取られなかったと記す。孫綝は張布を酒宴に招き、酔って「あのとき少主を廃した際、私に自ら帝位に就けと勧める者が多かった。今の陛下が賢いと思い、迎えて立てたのだ。私が差し出した品を断られては、ただの臣下扱いだ。計画を改めねばなるまい」と愚痴をこぼした。張布が孫休に告げた。
  15. 孫休は孫綝に賞を与えて安心させ、孫恩を侍中にして牽制した。告発した者を孫綝に引き渡すと、孫綝はその者を殺し、かえって不安になった。孫綝は孟宗を通じて武昌へ出たいと願い、孫休は中営の精兵1万余をつけて許し、武器庫の兵器も与えた。魏邈が「出せば乱になる」と諫め、施朔も謀反を報せた。
  16. 孫休は張布・丁奉と相談し、臘祭の日の宴で誅殺すると決めた。孫綝は風聞を聞いて病と称したが、使者が10余人も来たため断れず、家の者と「宴の間に屋敷で火を放て。それを口実に戻る」と約束して出た。屋敷から火が上がると、孫綝は帰りたいと願ったが孫休は許さず、席を立とうとしたところを、丁奉・張布が左右に縛らせた。
  17. 孫綝は跪いて叩頭し、「臣は交州への流罪で罪を償いたい」と願った。孫休は「卿はなぜ、滕胤や呂拠を流罪にしなかったのか」と答えた。孫綝が「官奴になります」と重ねて願うと、孫休は「なぜ滕胤・呂拠を官奴にしなかったのか」と答え、斬首を命じた。同謀の者は赦すと告げたため、孫綝の部下で武器を置いて降った者は5千人に及んだ。
  18. 弟の孫闓は船で魏へ降ろうとして追われ、斬られた。孫休は孫綝の三族を滅ぼし、孫峻の棺を掘り起こして印綬を取り、棺を砕いて遺体をそのまま埋め、孫魯育を殺した罪を問うた。孫峻・孫綝を宗族の名簿から除き、「故峻・故綝」と呼ばせた。孫休は、諸葛恪・滕胤・呂拠が無実だったと詔し、改葬して祭り、連座して流された者を戻した。
  19. 陳寿は孫綝を「凶竖盈溢、固より論ずるに足らず」と評した。裴松之は「孫綝は凶虐である」、司馬光は「貴きを恃んで倨傲し、多く無礼を行った」と記す。蔡東藩は、孫亮がこらえて待てば、孫休のやり方を取れたかもしれない、孫綝は志こそ司馬昭に似ていたが、才力ははるかに及ばなかった、と評した。
  20. 逸話として、百度百科は、東呉の術士・徐光が孫綝の門前を衣を持ち上げて通り、「ここは血の臭いがひどい」と言ったため殺されたが、首を斬っても血が出なかった、のちに孫綝が陵に詣でようとして車が転覆したとき、松の木の上で徐光が笑っていたのを孫綝だけが見て、不安になった、と伝える。

主な出典
『三国志』呉志 孫綝伝・三嗣主伝・宗室伝、裴松之注、日本語版・英語版Wikipedia、百度百科(『三国志』の引用を含む)の記述

Wikipediaで見る ↗

SOUL ALIGNMENT

人物像の分類:混沌・悪

皇帝の廃立、伍子胥廟の焼却、礼に背く行いなど、秩序を自分の都合で動かした行動から、規律は低めに置いています。

皇帝の廃立と政敵の排除を重ね、権力の維持が行動の中心にあったため、動機は自分寄りの側に置いています。

このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。

ABOUT THE CHRONICLE

強さではなく、生き方を。

48問・8つの性格軸・108人の人物データを使用しています。回答の平均値と人物プロフィールの距離で順位を決め、知名度で優先しません。一致度は8軸の回答と人物データの近さを百分率で表したもので、科学的な確率ではありません。

アラインメントについて

史料に基づく人物像の解釈には幅があり、この分類は暫定的なものです。史料の記述と本サイトによる解釈を区別し、人物ごとの説明では分類の理由を紹介しています。人物ごとの出典の裏付けには差があります。Wikipediaのリンクがあることだけで、動機の解釈が確定するものではありません。

人物側は、個人・組織・他者のどれを行動の主目的と捉えるかを個別に設定しています。分類ごとの人数は、人物像の違いによって異なります。史実上の内心や善悪の判定ではありません。プレイヤーの回答は人数比に合わせて補正せず、そのまま計算します。プレイヤーのアラインメントは初期状態では非表示です。説明を読んで表示を選んだ場合だけ、画面・保存画像・コピーテキスト・Xの投稿文に含まれます。「規律」だけを秩序/中立/混沌、「動機」だけを善/中立/悪に対応させ、独立に判定します。3.25以上を秩序・善、2.75以下を混沌・悪とします。人物とユーザー診断には同じ判定範囲を適用します。中立は2.75より大きく3.25より小さい値で、境界の2.75・3.25は含みません。境界付近の人物は2.75・3.25で表し、混在する動機のうち本作で少し重視する側を示します。分類名の追加による加点はありません。

善=自分の損得と無関係に他者のために動くこと、悪=自分個人の利益のために動くこと。組織や家が主目的の場合、または主な動機を一方に決められない場合は中立です。複数の動機があっても、他者支援・個人利益のどちらが主目的か明確なら4・2で表します。ルールを守って個人の利益を求める「秩序・悪」、ルールを破って他者を助ける「混沌・善」の両方が成立します。実際の道徳性を測るものではなく、史実上の人物の善悪も断定しません。人物紹介は、人物タイプと8つの性格軸から読み解く、本サイト独自の人物像です。

収録は108名です。魏28名・蜀28名・呉28名・群雄ほか20名・晋4名で、勢力は魏・蜀・呉・群雄ほか・晋の5分類です。診断を終えた回答は、このタブのセッション内に保持します。サーバーへ送信しません。再読み込み後も「自分の診断結果へ」から戻れます。ブラウザが保存を制限する場合は再読み込みで失われます。再診断を選ぶと保持した結果を削除します。

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「善・中立・悪」は行動の動機を表すゲーム用の分類で、実際の道徳性を測るものではありません。

アラインメントは8軸のうち「規律」と「動機」の2軸だけで決まります。一致度は8軸全体で計算するため、一致度の高い人物と分類が異なる場合があります。

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