CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
孫綝
皇帝を二人廃し立てたが、立てた皇帝に宴の席で捕らえられた呉の権臣
孫綝は、字を子通といい、呉の宗室で、孫峻の従弟です。太平元年(256年)に孫峻が没すると、後事を託されて朝政を代行し、呂拠と滕胤が起こした動きを、三族まで滅ぼして退けました。大将軍・永寧侯となりましたが、太平2年(257年)、諸葛誕の救援に失敗し、再出撃の命令を拒んだ朱異を、鑊里で斬ります。陳寿は「兵を失い、名将を自ら殺して、怨まれない者はなかった」と記しました。太平3年(258年)に孫亮を廃して孫休を立てましたが、孫休と対立し、永安元年12月(259年1月)、張布・丁奉らに捕らえられて殺されます。享年28とされます。経歴は『三国志』呉書 孫綝伝・三嗣主伝をもとにしています。
字は子通。従兄の孫峻の死後に実権を継ぎ、呂拠・滕胤を退けて大将軍となった。諸葛誕の救援に失敗し、朱異を処刑して不満を招いた。258年に孫亮を廃して孫休を立てたが、孫休と対立し、259年に張布・丁奉らに捕らえられて殺された。
THE WAY OF LIFE
孫綝の生き方
孫峻の後を継いだ時点で、まだ20代半ばだった。先に動いて政敵を倒す決断は速いが、その先の構想は見えにくい人物です。
皇帝を廃し、新帝に疑いを向けられると武昌への出鎮を願い出た。信条と規律は低めに置いています。
持ち味と、その裏側
孫峻の死の直後に呂拠・滕胤を退け、孫亮の暗殺計画を先に察知して宮城を囲むなど、先手を打つ決断の速さ。一方で、諸葛誕の救援では主力を寿春から遠ざけ、朱異を処刑して軍の信頼を失った。礼を軽んじる行いも多く、信条と規律は低くなった。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
231年(232年とも)〜永安元年12月(259年1月)
呉の宗室。字は子通。曾祖父は孫静、祖父は孫暠、父は孫綽。孫峻の従弟。弟に孫恩・孫据・孫闓ら。永寧侯。
- 呉の宗室の出身で、字は子通、呉郡富春県の人。孫堅の弟・孫静の曾孫で、祖父は孫暠、父は孫綽。孫峻は祖父を同じくする従兄にあたる。生年は日本語版Wikipediaが232年、英語版と百度百科は231年とし、没年は永安元年12月戊辰(259年1月)、享年28とされる。
- 太平元年(256年)9月、孫峻が魏への遠征のさなかに没し、偏将軍だった孫綝に後事を託した。孫綝は侍中・武衛将軍となり、中外の諸軍事を領して朝政を代行し、前線の軍を呼び戻した。
- 前線にいた呂拠はこれを聞いて大いに怒り、文欽・唐咨らと連名で、滕胤を丞相に推す上表をした。孫綝は滕胤を大司馬にして、亡くなった呂岱の後の武昌に出そうとした。呂拠は軍を率いて建業へ戻り、滕胤と孫綝を廃する計画を伝えた。
- 孫綝は従兄の孫憲(孫慮とも)に丁奉らを付けて江都で呂拠を迎え撃たせ、文欽らにも詔で攻撃させた。滕胤は都で動いたが、半夜に宮の蒼龍門へ兵を出すことをためらった。夜が明けても呂拠は来ず、孫綝の軍が総攻撃をかけて滕胤と将兵数十人を殺し、三族を滅ぼした。呂拠も新州で捕らえられて自害し、三族を滅ぼされた。
- 孫綝は大将軍・仮節・永寧侯となった。従兄の孫憲は、孫峻のときには厚く遇されたのに、孫綝から薄く遇されて怒り、王惇とともに孫綝を殺そうとした。孫綝は王惇を殺し、孫憲に毒を飲ませて自殺させた。
- 太平2年(257年)、魏の諸葛誕が寿春で挙兵して呉に降ると、孫綝は文欽・唐咨・全端らを送り、朱異に3万を率いさせたが、朱異は魏軍に敗れ、輜重を焼かれた。孫綝は鑊里まで出て、さらに3万を預けて死戦を命じたが、朱異は従わなかった。
- 孫綝は怒って朱異を呼びつけた。陸抗が止めたが、朱異は「子通(孫綝)は家の者だ。何を疑うことがあろう」と言って向かい、力士に引きずり立てられ、「我は呉の忠臣だ。何の罪があるのか」と叫びながら、鑊里で斬られた。孫綝は弟の孫恩を救援に出したが、諸葛誕は敗れ、寿春は落ちた。陳寿は「諸葛誕を救えず、兵を失い、名将を自ら殺して、怨まれない者はなかった」と記す。
- 西の守りにいた朱績は、孫綝のもとで呉が乱れ、魏に付け入られることを恐れ、密書を蜀へ送り、呉を併せる備えをさせたと『三国志』は記す。
- 孫綝は建業へ戻ると、孫亮が親政を始めており、朱異を殺したことを咎められた。病と称して朝見せず、朱雀橋の南に屋敷を築き、弟の孫据に蒼龍門の宿衛をさせ、孫恩・孫干・孫闓にそれぞれ営を分けて預け、朝政を握って身を守ろうとした。
- 太平3年(258年)、孫亮は、孫魯育(朱公主)が孫峻に殺された経緯を調べ直し、朱熊・朱損を責めた。孫綝は入って取りなしたが退けられ、丁奉が二人を殺した。朱損の妻は孫峻の妹で、孫綝はいっそう孫亮を恐れた。孫亮は孫魯班・全尚・劉承らと孫綝を除く相談をしたが、孫亮の妃(孫綝の従姪にあたる)が孫綝に知らせた(全尚が妻の孫氏、孫綝の従姉に漏らしたとする説もある)。
- 孫綝は夜のうちに全尚を捕らえ、弟の孫恩に劉承を蒼龍門の外で殺させ、宮を囲んだ。孟宗に宗廟で報告させ、百官を集めて「少帝は荒病で、大位に居れない」と告げ、皆が震えて「将軍の命のままに」と答えた。尚書の桓彝は署名を拒んで殺された。孫亮は会稽王に落とされた。
- 孫綝は施正の勧めで琅邪王の孫休を迎え、宗正の孫楷に書を持たせた。書には、孫亮が劉承に近づき、美女を宮中に集め、18歳以下の兵の子弟3千人を苑で調練し、武器庫の矛戟5千余を遊具にし、金銀で飾った小船300余艘を造らせたことなどが並ぶ。全尚は流刑の途上で殺され、全公主は豫章へ移された。
- 孫綝は志を得て振る舞いを抑えなくなり、伍子胥の廟を焼き、各地の仏寺を壊して僧を斬ったと百度百科は記す。孫休の即位後、孫綝は印綬を返す上書をし、孫休は慰めて丞相・荊州牧とし、五県を加えた。孫恩は御史大夫・衛将軍、孫据は右将軍となり、一門から五人が侯となって禁軍を握り、権勢は皇帝をしのいだ。
- 『三国志』は、孫綝が牛と酒を孫休に献じて受け取られなかったと記す。孫綝は張布を酒宴に招き、酔って「あのとき少主を廃した際、私に自ら帝位に就けと勧める者が多かった。今の陛下が賢いと思い、迎えて立てたのだ。私が差し出した品を断られては、ただの臣下扱いだ。計画を改めねばなるまい」と愚痴をこぼした。張布が孫休に告げた。
- 孫休は孫綝に賞を与えて安心させ、孫恩を侍中にして牽制した。告発した者を孫綝に引き渡すと、孫綝はその者を殺し、かえって不安になった。孫綝は孟宗を通じて武昌へ出たいと願い、孫休は中営の精兵1万余をつけて許し、武器庫の兵器も与えた。魏邈が「出せば乱になる」と諫め、施朔も謀反を報せた。
- 孫休は張布・丁奉と相談し、臘祭の日の宴で誅殺すると決めた。孫綝は風聞を聞いて病と称したが、使者が10余人も来たため断れず、家の者と「宴の間に屋敷で火を放て。それを口実に戻る」と約束して出た。屋敷から火が上がると、孫綝は帰りたいと願ったが孫休は許さず、席を立とうとしたところを、丁奉・張布が左右に縛らせた。
- 孫綝は跪いて叩頭し、「臣は交州への流罪で罪を償いたい」と願った。孫休は「卿はなぜ、滕胤や呂拠を流罪にしなかったのか」と答えた。孫綝が「官奴になります」と重ねて願うと、孫休は「なぜ滕胤・呂拠を官奴にしなかったのか」と答え、斬首を命じた。同謀の者は赦すと告げたため、孫綝の部下で武器を置いて降った者は5千人に及んだ。
- 弟の孫闓は船で魏へ降ろうとして追われ、斬られた。孫休は孫綝の三族を滅ぼし、孫峻の棺を掘り起こして印綬を取り、棺を砕いて遺体をそのまま埋め、孫魯育を殺した罪を問うた。孫峻・孫綝を宗族の名簿から除き、「故峻・故綝」と呼ばせた。孫休は、諸葛恪・滕胤・呂拠が無実だったと詔し、改葬して祭り、連座して流された者を戻した。
- 陳寿は孫綝を「凶竖盈溢、固より論ずるに足らず」と評した。裴松之は「孫綝は凶虐である」、司馬光は「貴きを恃んで倨傲し、多く無礼を行った」と記す。蔡東藩は、孫亮がこらえて待てば、孫休のやり方を取れたかもしれない、孫綝は志こそ司馬昭に似ていたが、才力ははるかに及ばなかった、と評した。
- 逸話として、百度百科は、東呉の術士・徐光が孫綝の門前を衣を持ち上げて通り、「ここは血の臭いがひどい」と言ったため殺されたが、首を斬っても血が出なかった、のちに孫綝が陵に詣でようとして車が転覆したとき、松の木の上で徐光が笑っていたのを孫綝だけが見て、不安になった、と伝える。
主な出典
『三国志』呉志 孫綝伝・三嗣主伝・宗室伝、裴松之注、日本語版・英語版Wikipedia、百度百科(『三国志』の引用を含む)の記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・悪
皇帝の廃立、伍子胥廟の焼却、礼に背く行いなど、秩序を自分の都合で動かした行動から、規律は低めに置いています。
皇帝の廃立と政敵の排除を重ね、権力の維持が行動の中心にあったため、動機は自分寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。