CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
孫皓
明君として即位し、暴君に変わった呉の最後の皇帝
孫皓は、字を元宗といい、孫権の孫で、廃太子・孫和の子です。永安7年(264年)、蜀が滅んで交阯が離反する難局のなか、濮陽興と張布に推されて、23歳で即位しました。即位当初は、倉を開いて貧民を救い、宮女を解放して、「明君」と称えられます。しかしまもなく粗暴で疑い深くなり、酒と女に溺れ、自分を推した濮陽興と張布も讒言で誅殺しました。後宮には数千人の女性を入れ、意にそわない者を殺したと伝わります。天紀3年(279年)に晋が攻め込み、翌年3月、後ろ手に縛って棺を持ち、王濬の軍門に降って呉は滅びました。経歴は『三国志』呉書 三嗣主伝をもとにしています。
孫権の孫で、廃太子・孫和の子。264年、23歳で呉の皇帝に即位した。即位当初は仁政で「明君」と称えられたが、やがて残虐な刑を行うようになり、280年、晋に降伏して呉は滅びた。
THE WAY OF LIFE
孫皓の生き方
初めは民を思い、のちに猜疑心と酒に溺れる。孫皓は、表現と挑戦はあっても、構想と動機が極端に低い人物像です。
国の先行きより、自分の気分と面子で動いた。構想と動機の低さに、その危うさを、表現の高さに、言葉の巧みさを重ねています。
持ち味と、その裏側
弁論が巧みで、歌や書にも優れた。降伏後、司馬炎や賈充に切り返した逸話も残る。一方で、人の目をえぐり、顔の皮を剥ぐなどの刑を行い、重臣や側近を次々と処刑して、呉を内側から弱らせたと伝わります。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
赤烏5年(242年)〜太康5年(284年)
呉郡の人。孫権の孫で、父は南陽王の孫和、母は何氏。初名は彭祖、字は元宗。
- 赤烏5年(242年)、孫権の孫として生まれた。父は、二宮の変で廃された孫和で、初名は彭祖といった。
- 永安7年(264年)、孫休が亡くなると、蜀が滅んで交阯が離反する難局の中、丞相の濮陽興と左将軍の張布らに推されて、23歳で即位した。
- 即位当初は、倉を開いて貧民を救い、宮女を解放し、御苑を開放して、「明君」と称えられた。しかし、まもなく粗暴で疑い深くなり、酒と女に溺れた。同年、自分を推した濮陽興と張布を、讒言により誅殺した。
- 甘露元年(265年)、都を武昌に遷し、建衡2年(270年)に建業へ戻した。後宮には数千人の女性を入れ、意にそわない者を殺したと伝わる。人の目をえぐる、顔の皮を剥ぐといった刑も行ったとされる。
- 諫める者もいた。左丞相の陸凱は、直言して罰せられなかったが、ほかの多くの臣は、処刑や左遷にあった。
- 天紀3年(279年)、晋が呉に攻め込んだ。翌年3月、孫皓は、皇太子らを連れ、後ろ手に縛って棺を持ち、王濬の軍門に降った。呉は、ここで滅んだ。孫皓は、帰命侯に封じられた。
- 洛陽では、司馬炎の求めに応じて、「爾汝歌」を詠んだ。顔の皮を剥いだ理由を問われると、「主君を弑した不忠者への見せしめ」と答えて、賈充を黙らせたという。太康5年(284年)12月、洛陽で亡くなった。42歳。
主な出典
『三国志』呉書 三嗣主伝(孫皓)、同注引『江表伝』『呉録』、『晋書』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・悪
皇帝として決まりを定める立場にありながら、気分で人を罰し、都を遷し、後宮を広げた姿から、規律は裁量寄りとしています。
気に入らない者を処刑し、後宮に数千人を入れたと伝わる振る舞いから、動機は最も個人寄りに置いています。降伏後の弁舌の巧みさは、別に評価されています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。