CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
孫登
人を許し、徳で慕われた呉の皇太子
孫登は、字を子高といい、孫権の長子です。生母の身分が低かったため、孫権の正室・徐夫人に養子として育てられ、養母を深く敬いました。黄初2年(221年)、孫権が呉王になると皇太子に立てられ、諸葛恪ら「太子四友」とともに、君臣の礼にとらわれず学問や乗馬をともにします。嘉禾3年(234年)に孫権が合肥へ遠征すると、建業に残って留守を預かりました。盗みの犯人を罰するに忍びず、叱って謹慎させるにとどめた話も伝わります。赤烏4年(241年)、33歳で病没し、弟の孫和を太子にすること、陸遜・諸葛瑾ら12名を重く用いることを遺書に残しました。経歴は『三国志』呉書 呉主五子伝をもとにしています。
孫権の長子。呉王のときに皇太子に立てられ、諸葛恪ら「太子四友」とともに学んだ。孫権の留守を預かって統治を務めたが、241年に33歳で病没した。
THE WAY OF LIFE
孫登の生き方
人を責めず、静かに受け止める。孫登は、穏やかな徳と、人の心に寄り添うやさしさを併せ持つ人物像です。
身分の高い立場でも、驕らずに人と接した。信条の高さと、挑戦の低さに、その謙虚さと、守る姿勢を重ねています。
持ち味と、その裏側
相手の立場を思いやる徳と、友人や臣下の言葉に耳を傾ける柔らかさ。一方で、罰を与えるのをためらうなど、厳しさに欠けると見られる場面もあり、自分から大きく踏み出すより、守りの姿勢に傾きました。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建安14年(209年)〜赤烏4年(241年)
揚州呉郡の人(建業の育ち)。字は子高。孫権の長子。生母は身分が低く、孫権の正室・徐夫人に養育された。
- 孫権の長子。生母の身分が低かったため、孫権の正室・徐夫人に養子として育てられた。養母を深く敬い、必ず沐浴してから衣服を着て会ったと伝わる。
- 黄初2年(221年)、孫権が呉王に封じられると、皇太子に立てられた。黄武4年(225年)、周瑜の娘を妃に迎えた。
- 黄龍元年(229年)、孫権が皇帝に即位すると、改めて皇太子となった。諸葛恪・張休・顧譚・陳表が側近の「太子四友」として仕え、孫登は、君臣の礼にとらわれず、学問や乗馬をともにした。
- 嘉禾元年(232年)、弟の孫慮の死に落ち込んだ孫権を見舞い、励ました。
- 嘉禾3年(234年)、孫権が合肥へ遠征すると、建業に残って留守を預かり、統治を務めた。
- 武昌での逸話として、狩りの際に良田を避けて苗を踏まないよう配慮した話がある。弾丸で撃たれる事件では、犯人とされた者の弾丸を探して比べさせ、別のものだと分かると、その者を釈放した。金の碗が盗まれた件では、近侍の者の仕業と分かったが、罰するに忍びず、叱って謹慎させるにとどめたという。
- 赤烏4年(241年)、33歳で病没した。死の直前、弟の孫和を皇太子とすること、陸遜・諸葛瑾ら12名を重く用いることを遺書に残した。陳寿は「しっかりとした志を持ち、徳が豊かな人物」と評している。
- 『三国志演義』では、徐夫人の実子とされるなど、設定が変えられている。
主な出典
『三国志』呉書 呉主五子伝(孫登伝)、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
罰を与える決まりより、情と判断で事を収める姿から、規律は中間に置いています。
民を思い、人を罰するより許す姿勢が目立つため、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。