CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
孫峻
諸葛恪を宴で斬り、呉の実権を握った人
孫峻は、字を子遠といい、孫堅の弟・孫静の曾孫で、弓馬に優れ、胆力と決断で知られました。孫権の晩年、全公主と組んで太子の孫和を陥れたと伝わります。252年に孫権が没すると、諸葛恪を後見に推し、自らは武衛将軍として宮中の軍を預かりました。253年、諸葛恪が合肥新城の攻撃に失敗して人望を失うと、謀反を企んでいると孫亮に説き、兵を隠した宴の場に招いて斬ります。丞相・大将軍となって軍権を握り、孫和にも死を賜りました。苛烈な処断と専横で敵が多く、暗殺の企てが相次いで発覚しています。256年9月に没し、後事を従弟の孫綝に託しました。経歴は『三国志』呉書 孫峻伝・諸葛恪伝をもとにしています。
呉の権臣。孫堅の弟・孫静の曾孫。孫権の死後、武衛将軍として政変を主導し、宴席で諸葛恪を殺して丞相・大将軍となった。256年、魏への出兵の最中に病没した。
THE WAY OF LIFE
孫峻の生き方
弓馬に優れ、胆力と決断で知られた。孫峻は、迷わず動く人物像です。
邪魔になる相手には、容赦のない手を打った。動機と規律を低めに置き、その苛烈さを重ねています。
持ち味と、その裏側
弓馬の腕と、一気に事を決める胆力。孫権の遺命の重臣を、短期間で排除してみせた実行力。一方で、苛烈な処断と専横が反発を呼び、陰謀が相次いだ人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建安24年(219年)頃〜太平元年(256年)
孫堅の弟・孫静の曾孫。祖父は孫暠、父は孫恭。字は子遠。
- 孫堅の弟・孫静の曾孫にあたる。祖父の孫暠は、孫策の死後に後継を望んだ件で失脚した人物で、孫峻の出世を妨げることはなかったという。孫峻は弓馬に優れ、胆力と決断で知られた。
- 孫権の晩年、全公主(孫魯班)と組んで、太子孫和を陥れたと伝わる。孫和は廃され、末子の孫亮が後継ぎに立てられた。孫権が孫和を呼び戻そうとしたとき、孫峻がそれに反対したという話も、『呉書』の注に見える。
- 252年に孫権が没する際、孫峻は諸葛恪を後見に推し、自らは武衛将軍として宮中の軍を預かり、侯に封じられた。
- 孫弘が孫権の死を伏せて諸葛恪を除こうとしたとき、孫峻はその計画を諸葛恪に伝え、諸葛恪が孫弘を誅殺した。
- 253年、諸葛恪は合肥新城の攻撃に失敗して、人望を失った。孫峻は、諸葛恪が謀反を企んでいると孫亮に説き、兵を隠した宴の場に招いた。『三国志』と『呉暦』は、孫峻が着替えて戻り、捕縛の令を出して諸葛恪を斬ったと伝える。『呉録』は孫亮が場で異を唱えたとするが、裴松之はこれを退けている。
- 諸葛恪の一族は滅ぼされ、弟の諸葛融は自殺した。孫峻は丞相・大将軍となり、軍権を握った。滕胤には辞職を認めず、かえって位を上げた。二人はしばしば対立しながら、表向きは和を保ったという。
- 孫峻は、諸葛恪の除かれた後に、孫和の璽綬を奪って新都へ移し、使者を遣わして死を賜った。死を命じたのは孫峻で、のちの孫皓ではない。
- 苛烈な処断と専横、全公主との関係の噂などで、敵が多かった。254年には呉侯の孫英が、255年には孫儀・張怡・林恂らが、孫峻の暗殺を企てて発覚し、処刑された。全公主は、妹の孫魯育を誣告して殺したとも伝わる。
- 255年、魏で毌丘倹・文欽が司馬師に反乱を起こすと、孫峻は寿春へ向かった。しかし東興に着いたところで、乱の失敗を知った。逃れてきた文欽らを受け入れ、高亭で魏軍を破ったものの、諸葛誕が先に寿春に入ったため、4月に撤退した。
- 256年、文欽の勧めで魏への大規模な出兵を命じたが、孫峻自身は出陣しなかった。石頭で呂拠の軍の規律に気圧され、病と称して引き上げた。のち、諸葛恪に撃たれる夢を見て恐れ、病に伏したと伝わる。
- 太平元年(256年)9月に没した。数え38歳。後事を従弟の孫綝に託した。孫綝が孫亮を廃して孫休に誅されたのち、孫峻の棺は掘り返されて縮小され、孫綝とともに宗室の籍から外された(258年)。『三国志』は、孫峻に子の記録を載せない。
主な出典
『三国志』呉書 孫峻伝・諸葛恪伝・孫和伝・孫亮伝、裴松之注に引く『呉暦』『呉録』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・悪
朝廷の決まりより、自分の判断で相手を除く場面が目立つため、規律は混沌寄りとしています。
政敵を宴で斬り、孫和にも死を命じた記録から、動機は自分と権力の側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。