CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
孫和
父と兄弟の争いに挟まれ、太子の座を失った人
孫和は、字を子孝といい、孫権の三男で、母は王夫人です。赤烏5年(242年)、十九歳で太子に立てられました。しかし、王夫人と全公主の対立が発端となり、魯王孫覇を支持する勢力と太子の側に分かれて争います(二宮の変)。孫権は子弟の不和を憂えましたが、太子を廃して孫亮を立て、諫めた群臣は十数人が誅されたり流されたりしました。太元2年(252年)に南陽王に封ぜられて長沙へ遣わされ、孫権の没後、孫峻の使者に死を賜ります。妃の張氏も後を追って自殺しました。のちに子の孫皓が帝位に就くと、父を文皇帝と追諡しました。経歴は『三国志』呉書 呉主五子伝をもとにしています。
呉の皇子。孫権の三男。赤烏5年に太子となったが、弟の魯王孫覇との争いで廃され、のち孫峻の使者に死を賜った。孫皓の父。
THE WAY OF LIFE
孫和の生き方
太子の座をめぐる対立の中心にいたが、記録の上では、争いを自分から激しくした場面は目立たない。孫和は、巻き込まれながら耐えた人物像です。
廃されたあとも、各地へ移されながら生き延びた。決断や挑戦は控えめに置いています。
持ち味と、その裏側
対立の中でも、自分から事を荒立てない慎み。一方で、味方をまとめて形勢を動かす強さは、記録からは見えにくい人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建安29年(224年)頃〜建興2年(253年)頃
孫権の三男。母は王夫人。字は子孝。
- 孫権の子で、赤烏5年(242年)に十九歳で太子に立てられた。
- 王夫人と全公主の対立が発端となり、魯王孫覇を支持する勢力と太子の側に分かれて争った(二宮の変)。孫権は子弟の不和を憂え、「子弟が睦まず、臣下が分かれていては、袁氏のような敗北を招き、天下の笑いものになる」と述べた。
- 孫権は太子を廃して孫亮を立てることを考え、朱拠と屈晃が諫めると怒って、陳正・陳象を誅した。孫和は幽閉されたのち、故鄣に移され、諫めて誅されたり流されたりした群臣は十数人にのぼった。
- 太元2年(252年)正月、南陽王に封ぜられて長沙へ遣わされた。同じ年の4月に孫権が没し、諸葛恪が政権を握った。
- 孫峻が諸葛恪を除いたのち、孫和の璽綬を奪い、新都へ移し、使者を遣わして死を賜った。妃の張氏も、後を追って自殺した。死を命じたのは孫峻であり、孫皓ではない。
- 孫休が立つと、孫和の子の孫皓は烏程侯に封ぜられた。孫皓が帝位に就くと、父を文皇帝と追諡し、明陵に改葬した。一方で、孫和の子の孫謙とその母は、孫皓に毒酒で殺された。
- 孫和の人柄を直接示す記録は少ない。このページの性格の値は、争いの中での振る舞いから置いた暫定のものである。
主な出典
『三国志』呉書 呉主五子伝(孫和の項)
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
命じられた処遇を受けて各地へ移った姿から、規律は中間に置いています。
争いの中で、自分の利益を押し通した記録が見えず、周囲の対立に巻き込まれた姿から、動機はやや他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。