CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
孫休
孫綝を誅殺して実権を取り戻し、学問に向かった呉の皇帝
孫休は、字を子烈といい、孫権の第6子で、呉の第3代皇帝です。十三歳のころ、謝慈と盛沖から学問を受けました。太平3年(258年)、孫綝が孫亮を廃位して擁立し、三度辞退したのち即位します。孫綝の専横が強まるなか、表向きは要求を受け入れながら、張布・丁奉らと謀って機をうかがい、永安元年12月に孫綝を捕らえて誅殺しました。五経博士を置き、学問を奨励して、試験で官位や恩賞を決めています。のちには学問に熱中して朝政から距離を置き、濮陽興と張布が政務を握りました。永安7年(264年)7月に亡くなり、孫晧が継ぎます。経歴は『三国志』呉書 三嗣主伝・孫綝伝をもとにしています。
呉の第3代皇帝。孫権の第6子。孫綝に擁立されて即位し、数か月後に丁奉・張布と謀って孫綝を誅殺した。学問を好み、五経博士を置いた。264年に亡くなり、孫皓が継いだ。
THE WAY OF LIFE
孫休の生き方
擁立してくれた権臣を、数か月後に倒した。孫休は、待つあいだに、手を打つ人物像です。
学問を好み、政務は側近に任せがちだった。表現を高く、挑戦を低く置いています。
持ち味と、その裏側
機を待って権臣を除く決断と、学問を重んじる姿勢。一方で、濮陽興や張布に政務を任せきりにして、新しい人材を登用できなかったと陳寿に評されている人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
嘉禾4年(235年)〜永安7年(264年)
孫権の第6子。生母は王夫人(敬懐皇后)。字は子烈。皇后は朱氏、子は孫𩅦ら。
- 嘉禾4年(235年)に、孫権の第6子として生まれた。生母は王夫人(のち敬懐皇后)。字は子烈。十三歳のころ、謝慈と盛沖から学問を受けた。
- 赤烏の末年、252年の正月に琅邪王となり、虎林に住んだ。同じ年の4月に孫権が没し、弟の孫亮が即位した。諸葛恪が実権を握り、諸王を長江沿いから移すために、孫休は丹陽郡へ移った。
- その後、丹陽太守の李衡に圧迫されて、会稽郡へ移った。数年のうちに、会稽太守の濮陽興と親しくなった。
- 太平3年(258年)9月、孫綝が孫亮を廃位し、孫休を擁立した。宗正の孫楷と中書郎の董朝が迎えに来た。孫休は迷ったが、応じて都へ向かった。10月18日、永昌亭で孫恩らの出迎えを受け、三度辞退したのち即位し、同日に年号を永安と改めた。
- 孫休は、孫綝や孫恩らを昇進させ、張布や董朝にも恩賞を与えた。孫綝の専横は強まった。孫休は、表向きは要求を受け入れながら、張布・丁奉らと謀って機をうかがったと伝わる。
- 永安元年12月、孫休は孫綝を捕らえて誅殺し、一族も滅ぼした。孫峻の墓を暴くなど、孫峻・孫綝の両家の記録を消す措置も取った。一方で、諸葛恪・滕胤・呂拠らの名誉を回復した。翌日には、張布の功を賞して、中軍督の位を加えた。
- 五経博士を置き、学問を奨励して、試験で官位や恩賞を決めた。永安2年(259年)には、武より文を重んじ、農業を盛んにする方針を示した。永安3年(260年)秋には、濮陽興の勧めで丹陽郡に浦里塘を築き、干拓を進めたが、工費と動員で死者や自殺者が出て、民の恨みを買った。
- 会稽にいた孫亮が再び即位するという流言が広がると、孫亮は侯官侯に降格され、任地へ向かう途中で亡くなった。自殺とされるが、孫休による毒殺説もある(年は260〜261年ごろ)。
- 永安5年(262年)、朱氏を皇后に立て、子の孫𩅦を太子にした。冬には濮陽興を丞相に任じた。このころから、孫休は学問に熱中して朝政から距離を置き、濮陽興と張布が政務を握った。張布の専横を知りながら咎めなかった、とも伝わる。
- 永安6年(263年)、交阯で呂興らが反乱を起こした。同じ年の冬、蜀が魏に攻められたとの知らせを受け、丁奉らに魏の寿春などへの攻撃や漢水方面への進軍を命じたが、劉禅が降伏したと伝わって、すべて中止になった。
- 永安7年(264年)7月に亡くなった。死の直前に言葉を失い、筆談で濮陽興を呼んで、太子に拝礼させて後事を託した、という話もある。万彧が孫晧を推薦し、濮陽興と張布が朱太后の同意を得て、孫晧を擁立した。孫休には四人の息子がおり、年長の二人は孫晧に殺されたとされる。裴松之注は妻子もすべて殺されたと伝えるが、検討が必要だとされる。
- 陳寿は、濮陽興と張布に政治を任せ、有能な人材を登用して新しい体制を築けなかったと評した。学問を好んだ割に、国の乱れを正す効果は乏しく、孫亮の悲惨な最期は、兄弟への配慮が足りなかったためだ、とも述べる。
- 孫休は、早朝から雉狩りに出て、夕方に戻った。群臣が諫めると、雉は小さな鳥だが、節操の固さは人に勝るから好むのだ、と答えたという。また、四人の息子には、名が重ならず、避けやすいように、新しい文字を作って名付けた。
主な出典
『三国志』呉書 三嗣主伝(孫休)・孫綝伝、裴松之注に引く『江表伝』『呉録』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
学問と礼を重んじる一方で、孫綝の誅殺や孫亮の処遇など、決まりを超えた動きもあるため、規律は中間に置いています。
孫綝を除いて実権を取り戻した記録と、孫亮の死に毒殺説が残る記録の両方があるため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。