CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
孫亮
十代で孫綝に挑み、廃された呉の少年皇帝
孫亮は、孫権と潘淑の子で、孫権の末子、呉の第2代皇帝です。二宮の変で兄の孫和が廃され、赤烏13年(250年)に皇太子に立てられました。建興元年(252年)に即位しましたが、孫峻・孫綝の専横が続き、太平2年(257年)に親政を試みます。太平3年(258年)、全尚らと孫綝の誅殺を計画しましたが、孫綝が先に動いて失敗し、廃位されて会稽王に落とされました。十六歳でした。永安3年(260年)、侯官侯に降格され、任地へ向かう途中で亡くなります。蜂蜜に鼠の糞が入っていた件で、糞を割って中が乾いているのを見せ、宦官の嘘を暴いた逸話も伝わります。経歴は『三国志』呉書 三嗣主伝と『江表伝』をもとにしています。
呉の第2代皇帝。孫権の末子。二宮事件のあと太子に立てられ、幼くして即位した。孫峻・孫綝の専横に挑んで孫綝の誅殺を図ったが、258年に先手を取られて廃された。260年に亡くなった。
THE WAY OF LIFE
孫亮の生き方
十代のうちに、権臣を除こうと動いた。孫亮は、幼くても自分で判断する人物像です。
鼠の糞の逸話のように、周りの嘘を見抜いた。表現と動機の高さに、その聡明さを重ねています。
持ち味と、その裏側
鼠の糞を割って宦官の嘘を暴いた聡明さと、法の平等を重んじた判断。十代で孫綝に挑んだ胆力。一方で、年が若く、後ろ盾も乏しく、統率の面では実権を握れなかった人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
赤烏6年(243年)〜永安3年(260年)
孫権の末子。生母は潘淑(のち潘皇后)。皇后は全氏。
- 赤烏6年(243年)、孫権と潘淑の子として、建業の宮中で生まれた。孫権の末子だった。
- 赤烏13年(250年)、二宮事件で兄の孫和が廃されると、11月に皇太子に立てられた。太元元年(251年)夏には、母の潘淑が皇后になった。同じ年の12月に孫権が病に伏すと、諸葛恪と滕胤が補佐役を任された。
- 建興元年(252年)、孫権が没して孫亮が即位した。諸葛恪が太傅となり、滕胤が衛将軍・尚書の職を兼ねた。冬に魏が南下したが、諸葛恪が東興でこれを破った。
- 建興2年(253年)正月、全氏が皇后に立てられた。春に諸葛恪が合肥新城を囲んで失敗した。10月、大饗の宴で孫峻がクーデターを起こし、諸葛恪が殺された。孫亮は事前に知らされておらず、怒ったとされる。
- 孫峻は専横を続け、孫英・孫儀らによる暗殺の計画が、相次いで発覚した。五鳳3年(256年)9月に孫峻が急死すると、従弟の孫綝が実権を継いだ。孫綝は、滕胤と呂拠を討った。
- 太平2年(257年)4月、孫亮は正殿に出て、親政を試みた。孫綝との対立は深まり、孫綝は近衛軍を整えて、孫亮の意向に反対した。
- 太平3年(258年)、孫亮は全尚・全紀・劉丞らと、孫綝の誅殺を計画した。9月26日、孫綝が先に動き、計画は失敗した。劉丞は殺され、全尚は零陵、全公主(孫魯班)は豫章へ流された。孫綝は孫亮の廃位を宣言し、会稽王に落とした。孫亮は十六歳だった。後継には孫休が立てられた。
- 永安3年(260年)、会稽にいた孫亮が再び即位するという流言が広がり、孫亮は侯官侯に降格された。任地へ向かう途中で亡くなった。自殺とされるが、孫休による毒殺とする記録もある。享年は明記されないが、十七〜十八歳ほどになる。呉の滅亡後、太康年間に、戴顕が遺体を改葬したと伝わる。
- 『江表伝』は、こんな逸話を伝える。梅の蜜漬けに使った蜂蜜に、鼠の糞が入っていた。宦官が倉庫番を陥れようとしたものだったが、孫亮は糞を割って、中が乾いているのを見せ、後から入れたものではないと示して、嘘を暴いた。
- 甥の孫基が御馬を盗んで裁かれたとき、孫亮は法の平等を理由に、一度は退けた。しかし刁玄の進言を受け、宮中の範囲で恩赦をして、孫基を救ったという。兄の孫奮が庶人に落とされたときも、孫亮の求めで章安侯に封じられた。
- 陳寿は、孫亮は幼くして良い補佐役を得られず、退位は当然の成り行きだった、と評している。孫魯育の死の真相を知って、孫峻の側近だった朱熊・朱損を責めたのも、孫亮と伝わる。
主な出典
『三国志』呉書 三嗣主伝(孫亮)、裴松之注に引く『江表伝』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
法の平等を重んじた逸話はあるが、権臣を除く計画は朝廷の決まりを超えるため、規律は中間に置いています。
法の平等を理由に判断した逸話や、孫綝の誅殺を図った記録から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。