CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
孫乾
鄭玄に推され、袁紹と劉表のもとへ劉備の使者に立った外交の古参
孫乾は、字を公祐といい、北海郡の人です。名士・鄭玄に推されて州に仕え、劉備が徐州を領すると招かれて従事となりました。劉備が窮地に陥るたびに使者に立ち、袁紹と同盟を結び、劉表のもとでは糜竺とともに受け入れの話をまとめます。益州平定後は秉忠将軍となり、ほどなく亡くなりました。経歴は『三国志』蜀書 許麋孫簡伊秦伝をもとにしています。
字は公祐。北海郡の人。名士・鄭玄に州へ推挙され、劉備が徐州を領すると従事に招かれた。建安元年(196年)に劉備が呂布に敗れて流亡すると、それに従った。建安5年(200年)、劉備が曹操に背いて袁紹と結ぼうとしたとき、孫乾が使者となって同盟を結んだ。建安6年(201年)、劉備が曹操に敗れて荊州へ向かうと、孫乾は糜竺とともに先に劉表のもとへ行って話をまとめ、劉備は満足した。糜竺・簡雍とともに左将軍従事中郎となった。建安19年(214年)に劉備が益州を平定すると秉忠将軍に任じられ、待遇は糜竺に次ぎ、簡雍と同等だった。ほどなく亡くなった。
THE WAY OF LIFE
孫乾の生き方
流浪の主君にとって、同盟を結べる相手がいなければ、居場所がなかった。孫乾は、そのたびに遠い陣営へ出向き、話をまとめて帰ってきた。
武功の話は残らない。それでも劉備は、益州を得たあとも、孫乾を糜竺に次ぐ席に置いた。主君の苦しい時期を、使者として支え続けた人への礼だった。
持ち味と、その裏側
礼を整え、相手の懐に入って話をまとめる外交の力。劉表は袁尚への書簡で、劉備・孫乾と語るたびに袁氏兄弟の争いに心を痛めたと述べ、孫乾が重んじられたことが分かる。陳寿は、糜竺・孫乾・簡雍・伊籍らを「雍容として議を風し、世に礼を見られた」と評した。一方、武功の記事はなく、人物像は使者としての働きを通して見える。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年不詳(後漢末、214年以降まもなく没)
北海郡の人。字は公祐。
- 名士・鄭玄に州へ推挙された。劉備が徐州を領すると、従事に招かれた。
- 建安元年(196年)、劉備が呂布に敗れて流亡すると、それに従った。
- 建安5年(200年)、劉備が曹操に背いて北の袁紹と結ぼうとしたとき、孫乾は使者となって同盟を結んだ。
- 建安6年(201年)、劉備が曹操に敗れて荊州へ向かうと、孫乾は糜竺とともに先に劉表のもとへ行き、話をまとめた。劉備は満足し、孫乾は糜竺・簡雍とともに左将軍従事中郎となった。
- 劉表は袁尚への書簡で、劉備や孫乾と語るたびに、袁氏の兄弟の争いに心を痛めたと述べた。孫乾がそれほど重んじられたことを示す。
- 建安19年(214年)、劉備が益州を平定すると、孫乾は秉忠将軍に昇った。待遇は糜竺に次ぎ、簡雍と同等だった。ほどなく亡くなった。没年は記されていない。
- 『三国志演義』では、陶謙が臨終に劉備へ孫乾を推挙したことになっているが、正史にはその記載がない。
主な出典
『三国志』蜀書「許麋孫簡伊秦伝」(孫乾伝)。経歴は Wikipedia「孫乾」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
礼と手順を整えて役目を果たしたことから、規律は秩序寄りに置いています。
劉備のために使者に立ち続けた人で、動機は中立(主君のため)に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。