CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
夏侯玄
制度の改革を説き、司馬氏に刑場で散った名士
夏侯玄は、字を泰初といい、夏侯尚の子で、曹爽のいとこです。学者として名高く、何晏と並び称されました。曹爽が政権を握ると征西将軍として雍州・涼州の軍事を担い、九品官人法を批判して、州郡の制度を根本から改める案を司馬懿に示しています。嘉平元年(249年)に司馬懿が曹爽を失脚させると、洛陽へ呼び戻され、実際の政務からは遠ざけられました。同族の夏侯覇が蜀へ降るとき、誘いには応じなかったと伝わります。嘉平6年(254年)、李豊らが司馬師を除く計画を立て、夏侯玄を大将軍に据えるつもりだったとされ、計画が露見して処刑されました。妹の夫の司馬師が、その政権の主でした。経歴は『三国志』魏書 夏侯玄伝をもとにしています。
魏の名士。夏侯尚の子で、曹爽のいとこ。九品官人法などの改革を論じた。曹爽の失脚後は冷遇され、254年、李豊らの事件に連座して司馬師に処刑された。
THE WAY OF LIFE
夏侯玄の生き方
目先の人事より、制度の根本を変えることを論じた。夏侯玄は、大きな枠組みで物事を考える人物像です。
立場が悪くなっても、考えを曲げなかったと伝わる。構想と信条の高さに、その姿を重ねています。
持ち味と、その裏側
制度全体を見渡す構想力と、評判を集めた教養と風格。一方で、曹爽の周囲にいたという立場の重さから、政権が変わると、身を守る道が狭まった人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建安14年(209年)〜嘉平6年(254年)
沛国譙県の人。夏侯尚の子。字は泰初。母は曹氏の徳陽郷主。妹に夏侯徽。
- 字は泰初、沛国譙県の人。夏侯尚の子で、母は曹氏の徳陽郷主。妹の夏侯徽は司馬師の妻になった。曹爽とはいとこにあたる。
- 二十歳のころ、散騎侍郎・黄門侍郎となった。明帝(曹叡)の前で、皇后の弟の毛曾と席を並べるのを恥じたため、羽林監に左遷されたという。
- 学者として名高く、何晏と並び称された。『世説新語』は、夏侯玄のことを、日月が胸に入るように朗らかだと評する。これは後世の人物評で、史書の本文ではない。
- 曹爽が政権を握ると、散騎常侍・中護軍となり、のち征西将軍として雍州・涼州の軍事を担った。
- 九品官人法を批判し、州郡の制度を根本から改める案を、司馬懿に示した。司馬懿は、誰かが推し進めなければ改革は実現しない、と答えたという。夏侯玄は、その答えを消極的だと評した。
- 嘉平元年(249年)、司馬懿が曹爽を失脚させると、夏侯玄は洛陽へ呼び戻され、大鴻臚、のち太常に移された。同族の夏侯覇が蜀へ降るとき、夏侯玄は誘いに応じなかったと伝わる。曹爽の側近だったため、実際の政務からは遠ざけられた。
- 嘉平6年(254年)、中書令の李豊が、光禄大夫の張緝らと、司馬師を除いて曹芳の権力を取り戻す計画を立て、夏侯玄を大将軍に据えるつもりだったとされる。司馬師は計画を察知し、夏侯玄を捕らえて廷尉の鍾毓に送った。
- 夏侯玄・李豊・張緝らは反逆の罪で処刑され、3月のことになる。一族は三族に及んだ。妹の夏侯徽の夫である司馬師が、その処刑を行った政権の主だった。
- 裴松之注が引く『魏氏春秋』などには、処刑の場でも夏侯玄が顔色を変えなかった、という逸話が伝わる。細部は史料によって異なる。
主な出典
『三国志』魏書 夏侯玄伝(裴松之注に引く『魏氏春秋』などを含む)、『世説新語』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
制度の改革を論じ、現行の決まりをそのまま守る人ではなかったため、規律は中間に置いています。
制度の改善を訴え、曹氏の臣として生きた記録から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。