CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
夏侯徽
若くして亡くなり、死因が二通りに伝わる人
夏侯徽は、魏の将軍夏侯尚の娘で、司馬師の最初の妻です。234年に二十代前半で亡くなり、『晋書』は夫の司馬師に毒殺されたと伝えますが、この話は疑われています。本人の言葉や行いはほとんど残らず、人柄を示す記録はありません。ここでは、記録の少なさを踏まえた暫定の値を置いています。本人の内心を断定するものではありません。
魏の将軍夏侯尚の娘で、司馬師の最初の妻。234年に若くして亡くなった。死因を毒殺とするのは『晋書』で、司馬光はこれを疑った。夏侯玄の妹。
THE WAY OF LIFE
夏侯徽の生き方
本人の言葉や行いは、ほとんど伝わらない。夏侯徽は、記録の少なさそのものが、人物像の手がかりになる人です。
『晋書』の逸話のとおりなら、魏と夫の間に挟まれた人になる。ただし、この逸話は疑われており、値は暫定です。
持ち味と、その裏側
記録が少ないため、持ち味を特定できません。確かに言えるのは、魏の名門の娘として、司馬氏に嫁いだという立場だけです。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建安16年(211年)頃〜青龍2年(234年)
沛国譙県の人。夏侯尚の娘。母は曹氏の徳陽郷主。兄に夏侯玄。
- 沛国譙県の人。魏の将軍夏侯尚の娘で、母は曹氏の徳陽郷主とされる。同母の兄に、のち魏の名士となる夏侯玄がいる。
- 司馬師に嫁ぎ、娘を五人産んだと伝わる。息子はいなかった。嫁いだ時期ははっきりしない。
- 青龍2年(234年)、二十代前半で亡くなった。『晋書』は、后は景帝(司馬師)が魏の純臣ではないと知っており、后が魏氏の血縁でもあったため、景帝は深く彼女を忌み、鴆毒で殺した、と読める書き方をする。
- 『三国志』には、この件を伝える記述が見つからない。同じ年の4月に疫病が流行したことは、『三国志』と『資治通鑑』が記しており、病没とみる見方もある。
- 北宋の司馬光は、『資治通鑑考異』で『晋書』の話を疑い、『資治通鑑』には採らなかった。当時の司馬懿は、明帝の信任を得たばかりで、不忠をうかがわせる動きはなく、息子たちにも魏を離れる理由はなかった、というのがその理由である。
- のちに、景懐皇后と追尊された。
- 兄の夏侯玄は、嘉平6年(254年)、李豊・張緝らの事件で逮捕され、3月に処刑された。一族は三族にまで及んだ。司馬師が政権を握っていた時期のことである(『三国志』本文と裴松之注)。
- 死因を毒殺とする記述は『晋書』にある。それが史実か、後世の脚色かは、決着していない。このページの性格の値は、記録の少なさを踏まえた暫定のものである。
主な出典
『晋書』后妃伝(景懐夏侯皇后)、『資治通鑑考異』、『三国志』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
規律を示す記録が乏しいため、中間に置いています。
記録が乏しく、動機を一方に定められないため、中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。