CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
士燮
乱世の南端で、四十年あまり一帯を治めた老太守
士燮は、字を威彦といい、蒼梧郡広信県の人です。若いころ洛陽に学び、『春秋左氏伝』に通じたと伝わります。光和7年(184年)ごろ交阯太守となり、弟たちもそれぞれ合浦・九真・南海の太守となって、一族で交州を治めました。後漢の朝廷が乱れても貢納を続け、曹操から綏南中郎将に任じられます。建安15年(210年)に孫権の将・歩騭が来ると帰順し、孫権からも重んじられました。黄武5年(226年)に没したのち、子の士徽らが孫権の直接統治に反発しましたが、呂岱に討たれ、士氏は滅びました。経歴は『三国志』呉書 士燮伝をもとにしています。
後漢末、交州の交阯太守として一帯を治めた。曹操や孫権の権威に従う形で、南方の安定を保った。
THE WAY OF LIFE
士燮の生き方
遠い北の争いとは距離を置き、足元の暮らしを守る。士燮は、学識に支えられた大局観と、堅実に地盤を守る慎重さを併せ持つ人物像です。
異国の商人も行き交う港の主として、争いより交わりを選ぶ。構想と統率の高さと、挑戦の低さに、その安定した治め方を重ねています。
持ち味と、その裏側
学識と交易で地域を安定させる大局観と、立場を見極める慎重さ。一方で、一族に権力が集まるため、世代が代わると統制が揺らぎやすくなります。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
137年ごろ〜黄武5年(226年)
蒼梧郡広信県の人。字は威彦。祖先は魯国の出身とされる。
- 若いころ洛陽に学び、『春秋左氏伝』に通じたと伝わる。
- 光和7年(184年)ごろ、交阯太守となった。弟の士壱・士䵋・士武も、それぞれ合浦・九真・南海の太守となり、一族で交州を治めた。
- 後漢の朝廷が乱れるなかでも貢納を続け、曹操から綏南中郎将に任じられた。
- 建安15年(210年)、孫権の将・歩騭が来ると帰順し、子の士廞を人質に送った。のちに孫権からも重んじられた。
- 出行のときには、胡人(異国の商人)が香を焚いて付き従ったと記される。南海の交易で、一帯は栄えた。
- 黄武5年(226年)に没した。のち、子の士徽らが孫権の直接統治に反発したが、呂岱に討たれ、士氏は滅んだ。
主な出典
『三国志』呉書 士燮伝
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
朝廷や上位の勢力の筋を立てながら、地域を治めた姿から、規律は秩序寄りとしています。
地域の安定と一族の立場の両方に配慮する姿から、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。