CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
周処
自分が「三害」の一つと知って改心し、五千で七万に向かって死んだ人
周処は、呉の鄱陽太守・周魴の子です。若いころは乱暴者で、郷里では南山の虎、長橋の蛟と並んで「三害」と呼ばれていました。それを知って虎を射殺し、三日三晩川で蛟と戦って殺して帰ると、自分が死んだと思った村人たちが祝っているのを見て、初めてどれほど憎まれていたかを悟ります。陸雲に「朝に聞いて夕べに改めればよい」と励まされて学問に励み、呉に仕え、呉が滅ぶと晋に仕えて四郡を治め、御史中丞として梁王司馬肜の違法を容赦なく裁きました。それを恨まれて、氐の斉万年の乱に援軍なしの五千で七万に当てられ、朝から夕方まで戦って矢が尽き、「ここが私の節を尽くす場所だ」と退かずに死にました。経歴は『晋書』周処伝をもとにしています。
呉郡陽羨(義興)の人で、字は子隠。周魴の子。幼くして父を失い、二十歳前には膂力が人並み外れ、狩りと乱暴に明け暮れて郷里の患いとなった。父老に「三害が除かれない」と言われ、自分がその一つだと知ると、山で虎を射殺し、川に飛び込んで蛟と三日三晩戦って殺した。帰ると郷里が自分の死を祝っていた。呉に陸機・陸雲を訪ね、陸雲の言葉で志を立て、一年で州府に召された。呉で東観左丞・無難督。呉が滅ぶと王渾の嘲りに「魏が先に滅び、呉が後に滅んだ。亡国の憂いは一人のものか」と返して恥じ入らせた。晋で新平太守として羌を帰順させ、広漢太守として三十年未決の訴訟を一度に裁き、楚内史として野ざらしの白骨を葬った。御史中丞となり、寵臣も貴戚も避けず弾劾し、梁王司馬肜を法のとおりに裁いた。296年、斉万年の乱に、剛直を憎む朝臣たちによって夏侯駿・司馬肜の下に送られた。孫秀が老母を理由に辞せと勧めたが「忠と孝は両立しない。親を辞して君に仕えた以上、今日が私の死に場所だ」と答えた。297年、六陌で五千を率い、兵は食事もとれぬまま進撃を急かされ、後詰めを断たれて七万と戦い、朝から夕まで万を斬って矢が尽き、「ここが節を尽くす日だ」と退かず戦死した。平西将軍を追贈され、諡は孝。『風土記』を著し、端午・七夕・重陽の習俗を伝える最古の書となった。
THE WAY OF LIFE
周処の生き方
「今は世も穏やかで豊作だ。何を苦しんで楽しまないのか」。父老は答えた。「三害が除かれないのに、何が楽しいものか」。「三害とは」。「南山の白額の虎、長橋の下の蛟、それにお前だ」。周処は言った。「それなら、私が除く」。
虎を射殺し、川に飛び込んで蛟と三日三晩戦い、数十里を流されながら殺した。帰ってみると、郷里は祝っていた。周処が死んだと思って。そのとき初めて、自分がどれほど憎まれていたかを知った。陸雲を訪ねて「改めたいが、もう年を取りすぎた」と言うと、陸雲は答えた。「古人は朝に聞いて夕べに死んでもよいとした。君の前途はまだある。志が立たないことを患え、名が上がらないことを憂えるな」。
六陌。五千で七万に向かう朝、兵はまだ食事をしていなかった。司馬肜は進めと急かし、後詰めを断った。周処は詩を賦した。「去りゆく世のことはもう終わった。馬を駆って西戎を見よう。粗末な食事も甘いと思おう。よき終わりを期して」。朝から夕方まで戦い、万を斬り、矢が尽きた。左右が退けと勧めると、剣を押さえて言った。「ここが私の節を尽くし命を授ける日だ。何を退くことがある」。
持ち味と、その裏側
人並み外れた膂力と胆力、そして一度悟ってからの徹底した自己改革。四郡を治めて民に慕われ、御史中丞として権貴を恐れず、文章も残した文武兼備の人。一方で、その剛直が司馬肜ら貴戚の恨みを買い、援軍を断たれて死ぬ原因になった。斉万年も「周処が独断で来れば当たれない。人に制されて来るなら捕らえられる」と見抜いていた。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
236年〜297年(享年62)
揚州呉郡陽羨県(義興)の人。字は子隠。呉の鄱陽太守・周魴の子。
- 236年、呉郡陽羨に生まれた。父は鄱陽太守の周魴。幼くして父を失った。二十歳になる前から膂力が人並み外れ、馬を駆って狩りを好み、細かい行いを修めず、情のままに振る舞って、郷里の患いとなった。
- 自分が嫌われていることは知っており、改めたい思いもあった。父老に「今は時も和し歳も豊かなのに、なぜ楽しまないのか」と問うと、父老は「三害が除かれないのに何が楽しいか」と嘆いた。「三害とは」「南山の白額の猛獣、長橋の下の蛟、そしてお前だ」。周処は「それなら私が除こう」と言い、山に入って虎を射殺し、川に飛び込んで蛟と戦った。蛟は浮き沈みしながら数十里を流れ、周処もそれについて三日三晩戦った。人々は周処も死んだと思い、互いに祝った。
- 周処は蛟を殺して戻り、郷里が祝っていると聞いて、初めて自分がどれほど憎まれていたかを知った。呉に陸機・陸雲を訪ね、陸機は不在で陸雲に会い、「自分を修めたいが年はもう過ぎてしまった、間に合わないだろう」と告げた。陸雲は「古人は朝に道を聞けば夕べに改めることを貴んだ。君の前途はまだある。人は志の立たないことを患うべきで、名の上がらないことを憂える必要はない」と答えた。周処は志を励まして学問を好み、文才があり、義烈を志し、言葉は必ず忠信、己を克した。一年で州府が競って召した。
- 呉に仕えて東観左丞となり、孫皓の末年には無難督となった。280年、呉が滅ぶと、王渾が建業の宮殿で酒宴を開き、酔って呉の人々に「諸君は亡国の遺民だ、憂いはないのか」と言った。周処は「漢末に天下は分かれて三国が鼎立し、魏が先に滅び、呉が後に滅んだ。亡国の憂いは、どうして一人だけのものか」と答え、王渾は恥じ入った。
- 洛陽に入り、新平太守となって戎狄を安撫し、叛いていた羌を帰順させ、雍の人々は称えた。広漢太守に転じると、郡には三十年経っても判決の出ない訴訟が多く溜まっていた。周処は曲直を詳しく調べて、一朝にして裁き終えた。母が年老いたので官を辞して帰った。
- 楚内史に任じられ、まだ赴任しないうちに散騎常侍に召されたが、「古人は大官を辞しても小職は辞さなかった」と言って先に楚へ赴いた。楚は喪乱を経て新旧の住民が入り混じり、風俗が一つでなかった。周処は教義で諭し、野に捨てられた無縁の屍骸と白骨を集めて葬ってから、朝廷の召しに応じた。遠近が称嘆した。
- 近侍となってからは、たびたび規諌した。御史中丞に遷ると、弾劾する相手に寵臣も貴戚も区別しなかった。梁王司馬肜が法を犯すと、法文のとおりに厳しく裁いた。
- 296年、氐の斉万年が叛くと、朝臣たちは周処の剛直を憎み、口を揃えて「周処は呉の名将の子で、忠烈果毅だ」と言って、夏侯駿の下に属させて西征に送った。伏波将軍孫秀は周処が死ぬと知り、「卿には老母がいる。それを理由に辞せる」と言ったが、周処は「忠と孝の道は両立しない。親を辞して君に仕えた以上、父母はもう私を子とは思えまい。今日が私の死に場所だ」と答えた。斉万年はこれを聞いて「周府君はかつて新平太守だった。文武の才を兼ねた人だ。独断で来るなら当たれない。人に制されて来るなら、これは捕らえられる」と言った。
- 梁王司馬肜が征西大将軍・都督関中諸軍事となった。周処は司馬肜が恨みを持ち、必ず自分を陥れると知っていたが、人臣として節を尽くすべきで辞すべきでないと考え、悲憤して出発し、生きて帰らぬ覚悟を決めた。中書令陳準は朝廷で「夏侯駿と梁王は貴戚で将帥の才はなく、進んでも名を求めず退いても咎を恐れない。周処は呉の人で忠勇果敢だが、怨みはあっても援けがない。必ず命を落とす。孟観に精兵一万を与えて周処の前鋒とすべきだ。さもなくば梁王は周処を先駆に使い、必ず敗れる」と言ったが、朝廷は聞かなかった。
- 297年、賊は梁山に七万で屯していた。夏侯駿は周処に五千で攻めよと迫った。周処は「軍に後続がなければ必ず覆る。身を亡ぼすだけでなく、国の恥になる」と言ったが、司馬肜も進撃を命じた。周処は振武将軍盧播・雍州刺史解系とともに六陌で斉万年を攻めた。戦う前、周処の兵はまだ食事をしていなかったが、司馬肜は速く進めと急かし、後続を断った。周処は敗北を知り、詩を賦した。「去去として世事は已み、馬に策うって西戎を観る。藜藿も粱黍と甘んじ、克く令終せんことを期す」。言い終えて戦い、朝から夕方まで万余を斬ったが、弦は切れ矢は尽き、盧播も解系も救わなかった。左右が退くよう勧めると、剣を押さえて「ここが私の節を尽くし命を授ける日だ。何を退くことがある。古の良将は命を受けると凶門を鑿って出た、進むのみで退くことはない。諸軍が信を背いた以上、勢いは振るわない。私は大臣として身をもって国に殉じる、それでよいではないか」と言い、力戦して死んだ。六十二歳。
- 晋は平西将軍を追贈し、銭百万、葬地一頃、京城の宅地五十畝、王家の近田五頃を賜った。詔は「周処の母は年老い、遠方の人でもある。朕はつねに憐れむ。医薬と酒米を給し、天寿を全うさせよ」と言った。潘岳は『関中詩』に「周は師令に徇じ、身は斉斧に膏す」と詠み、閻纘は「周はその節を全うし、令問已まず。身は没すといえども、名を良史に書す」と上った。のち元帝司馬睿が晋王のとき、賀循の議により「執徳不回」の義で「孝」と諡された。
- 著書に『黙語』三十篇と『風土記』があり、『呉書』も撰集した。『風土記』は地方の歳時と風俗を記した現存最古級の書で、端午・七夕・重陽などの習俗の典拠として今も引かれる。三子のうち周玘・周札は東晋で名を知られた。『世説新語』自新篇の「周処除三害」は、改過自新の典型として後世に語り継がれ、唐の房玄齢は「凶蛟猛獣に比せられ郷閭に毒を縦にしたが、ついに己に克ち精を励まし、朝に聞いて夕べに改め、生を軽んじ義を重んじ、国に殉じて躯を亡ぼした。志節の士と言うべきだ」と評した。
主な出典
『晋書』周処伝、『世説新語』自新篇。経歴は 百度百科「周処」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
御史中丞として法を曲げずに梁王を裁き、臣としての節を貫いて命を捨てました。若いころの放縦とは逆に、改心後は秩序の人として生きたことから、規律は秩序寄りに置いています。
若いころの乱暴は自分の欲のままでしたが、改心してからは郡民のため、法のため、最後は国のために命を使いました。孫秀に逃げ道を示されても取らなかった人として、動機は利他寄りに置いています。前半生は分類の対象にしていません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。