CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
呉懿
主を替えても、博愛を失わなかった蜀の仁将
呉懿は、字を子遠といい、兗州陳留郡の人です。劉焉が益州に入るとき、母・妹・族弟とともに従って移りました。劉璋に仕え、212年に劉備が攻めてくると防戦しましたが、のち降伏します。妹の呉氏は劉備の夫人となり、のちの穆皇后です。221年に偏将軍・関中都督となり、230年には魏延とともに羌中に進んで、魏の費曜を破りました。234年に諸葛亮が亡くなると、督漢中・車騎将軍・雍州刺史となり、237年に亡くなります。『季漢輔臣賛』は、非常に剛毅で、博愛の心を持った人物と称えています。経歴は『三国志』蜀書 二主妃子伝(穆皇后)と『季漢輔臣賛』をもとにしています。
蜀の将。劉焉に従って入蜀し、劉璋のもとから劉備に降った。妹は劉備の夫人(のちの穆皇后)となり、車騎将軍・雍州刺史に至った。
THE WAY OF LIFE
呉懿の生き方
争いを好まず、人を受け入れる。呉懿は、穏やかな人柄と、堅実な軍の運びを併せ持つ人物像です。
表に立たず、役目を静かに果たした。信条と動機の高さと、表現・構想の低さに、その実直さと控えめさを重ねています。
持ち味と、その裏側
皆を受け入れる博愛の心と、旧主と新主の間をつなぐ調整力。一方で、自分から前に出ないため、功績が記録に残りにくく、外戚でありながら個人の伝記もありません。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜建興15年(237年)
兗州陳留郡の人。字は子遠。「呉壱」とも表記される。妹は劉備の夫人・穆皇后。
- 劉焉が益州に入るとき、母・妹・族弟とともに従って移った。
- 劉璋に仕えて中郎将となった。212年に劉備が攻めてくると防戦したが、のち降伏した。
- 214年、劉備から護軍・討逆将軍に任じられた。妹の呉氏は、劉備の夫人となった(のち穆皇后)。
- 221年、劉備が帝位に即くと、偏将軍・関中都督となった。
- 228年の北伐では、先鋒の候補に挙げられたが、採用されなかった。
- 230年、魏延とともに羌中に進み、魏の費曜を破って、左将軍に進んだ。
- 234年に諸葛亮が亡くなると、督漢中・車騎将軍・仮節・雍州刺史となった。237年に亡くなった。
- 『季漢輔臣賛』は、非常に剛毅で、博愛の心を持った人物と称えている。皇帝の外戚でありながら、正史に個人の伝はない。
- 『三国志演義』では、益州攻略で劉璋側の将として登場して劉備に降り、のち諸葛亮の北伐にも加わるが、司馬懿に策を見破られて失敗し、以後は登場しなくなる。
主な出典
『三国志』蜀書 二主妃子伝(穆皇后)・同注引『季漢輔臣賛』・劉焉伝・諸葛亮伝、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
主を替えながらも、与えられた職務を堅実に果たした姿から、規律は中間としています。
「博愛」と称された人柄と、旧主にも新主にも筋を通す姿から、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。