CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
呉夫人
我が子の背を押し、家を支えた賢母
呉夫人は、揚州呉郡呉県の人で、孫堅の妻、孫策・孫権の母です。孫策(175年)、孫権(182年)、孫翊(184年)らを産みました。孫策の死後、孫権が後を継ぐと、母として若い孫権を支えます。建安7年(202年)、曹操が人質を求めてきた際は、周瑜とともに「人質は送らず、力を蓄えるべき」と孫権に勧め、周瑜を兄のように頼れと言ったと伝わります。没年は建安7年説と建安12年説があります。『演義』の「呉国太」は、孫堅の第2夫人とされる別の設定です。経歴は『三国志』呉書 妃嬪伝・周瑜伝をもとにしています。
孫堅の妻で、孫策・孫権の母。若き孫権に、周瑜を兄と思って頼るよう伝えた賢母。
THE WAY OF LIFE
呉夫人の生き方
目立たぬ場所から、家の大事な判断を支える。呉夫人は、人を見る確かな目と、家族を思う深い愛情を持つ人物像です。
迷う若い息子に、信頼できる人を示して背を押した。構想と統率の高さに、その見識と包容力を重ねています。
持ち味と、その裏側
人を見極める確かな目と、周囲を落ち着かせる包容力。一方で、家のことを抱え込みやすいため、頼れる人に任せることも大切です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜建安7年(202年)または建安12年(207年)ごろ
揚州呉郡呉県の人。孫堅の妻で、孫策・孫権の母。
- 呉郡の人。孫堅の正妻となり、孫策(175年)、孫権(182年)、孫翊(184年)らを産んだ。
- 孫策の死後、孫権が後を継ぐと、母として若い孫権を支えた。
- 建安7年(202年)、曹操が人質を求めてきた際、周瑜とともに「人質は送らず、力を蓄えるべき」と孫権に勧めたと伝わる。周瑜を兄のように頼れとも言った。
- 没年は建安7年(202年)説と建安12年(207年)説があり、孫堅の墓に合葬された。
- 『演義』の「呉国太」は、孫堅の第2夫人とされ、劉備を婿に選ぶ役で登場する別の設定。
主な出典
『三国志』呉書 妃嬪伝、周瑜伝、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
家の筋と、先代からの務めを守る姿から、規律は秩序寄りとしています。
家と子の将来を思う姿から、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。