CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
呂虔
泰山で十数年、威と恩で賊を降し、佩刀を王祥に譲った魏の将
呂虔は、字を子恪といい、任城郡の人で、曹操に仕えた魏の将軍です。兗州にいた曹操に胆略を認められ、私兵を率いて湖陸を守りました。のち泰山太守として、恩と信義で山中の賊を降し、民を呼び戻し、泰山を精兵の州郡で随一に育てます。夏侯淵とともに済南の黄巾も破りました。曹丕の代には徐州刺史となり、別駕の王祥に民政を任せて、人を任用できると称えられました。経歴は『三国志』魏書をもとにしています。
字は子恪。任城郡(現在の山東省済寧市付近)の人。192年、曹操が兗州を治めていた頃、胆略があると聞かれて従事に任じられ、私兵を率いて湖陸を守った。襄賁校尉の杜松のもとで、部民の炅母らが昌豨と通じて乱を起こすと、曹操は呂虔を杜松の後任とした。呂虔は、炅母らの首領と仲間数十人を酒食に招き、壮士を側に伏せて、酔ったところで皆殺しにし、残る者を慰撫して乱を鎮めた。のち泰山太守を兼ねる。泰山郡は山と海に接し、世が乱れて民が逃げ隠れ、袁紹が任じた郭祖・公孫犢ら数十人が山に拠って賊となり、民を苦しめていた。呂虔は私兵を率いて赴任し、恩と信義を示すと、郭祖らは降り、山中に隠れた民もみな出て生業に戻った。強い者を選んで兵に補ったため、泰山は精兵で州郡の第一と評された。済南の黄巾の徐和らが長吏をさらい、城を攻めると、夏侯淵と会して数十戦し、数千人を斬り捕らえた。曹操は青州の諸郡の兵を督して、東萊の李条らを討たせ、功を立てた。曹操は令を出し、「卿が郡に赴任して以来、奸を捕らえ暴を討ち、民は安んじた」と称え、寇恂・耿弇になぞらえた。茂才に挙げられ、騎都尉を加えられ、泰山の統治は変わらなかった。泰山には十数年在任し、威と恵みで知られた。曹丕が魏王となると、裨将軍・益寿亭侯、のち徐州刺史・威虜将軍となり、王祥を別駕に招いて民政を任せた。利城の叛賊を討って功を立てた。曹叡の即位後、万年亭侯に移され、食邑は二百戸増えて六百戸となった。没後、子の呂翻が爵位を継いだ。
THE WAY OF LIFE
呂虔の生き方
炅母らの乱に対し、酒食に招いて油断させ、伏兵で一網打尽にするという、荒い策で鎮めた。一方、泰山では恩と信義で郭祖らを降し、山に隠れていた民を帰した。
呂虔は佩刀を持っていた。刀工が、この刀を佩びる者は必ず三公に登ると見たという。呂虔は別駕の王祥に、「私は三公になる器ではない。公輔の器を持つ貴方に贈ろう」と言い、固辞する王祥に強いて受け取らせた。のち王祥は太保に昇り、臨終には弟の王覧に刀を贈った。『蒙求』にも収められた話だが、『三国志』呂虔伝には見えない。
持ち味と、その裏側
胆略と、民を安んじる統治。陳寿は「胆略があり、泰山で十数年、威恩があった」と評し、李通・臧覇・文聘・呂虔の四人を、州郡を鎮守して威恵を著した人々に挙げた。盧弼は、文聘・杜畿・呂虔が長く同じ任地にあり、郡守・刺史がこのように信任されたと記す。曹操は呂虔を寇恂・耿弇になぞらえて称えた。一方、炅母らの謀殺のような、荒い一面もある。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年不詳
任城郡の人。字は子恪。
- 192年: 曹操が兗州を治めていた頃、胆略があると聞かれて従事となり、私兵を率いて湖陸を守る。
- 襄賁: 杜松の部下の炅母らが昌豨と通じて乱を起こす。曹操は呂虔を杜松の後任とし、呂虔は炅母らを酒食に招いて伏兵で討った。
- 泰山太守: 郭祖・公孫犢らの賊を、恩と信義で降し、逃げ隠れた民を帰した。強い者を兵に補い、泰山は精兵で州郡の第一となった。
- 済南の黄巾: 夏侯淵と会して、徐和らを数十戦して破り、数千人を斬り捕らえた。
- 青州の賊: 曹操の命で、青州の諸郡の兵を督して東萊の李条らを討ち、功を立てた。曹操は令を出して称賛した。
- のち: 茂才に挙げられ、騎都尉を加えられた。泰山で十数年在任した。
- 220年: 曹丕が魏王となると、裨将軍・益寿亭侯を加えられ、のち徐州刺史・威虜将軍となる。王祥を別駕に招き、民事を委ねた。利城の叛賊を討って功を立てた。
- 227年: 曹叡が即位すると、万年亭侯に移され、食邑は二百戸増えて六百戸となった。
- 没後: 子の呂翻が爵位を継いだ。
- 佩刀の逸話: 呂虔は、三公に登るとされた佩刀を、公輔の器と見た王祥に贈ったと伝わる。王祥は太保に昇り、刀はのち王覧に伝わった。
- 『三国志演義』: 劉曄の推薦で曹操に仕え、呂布配下の薛蘭を射殺し、劉備征伐では李典らと先鋒を務め、赤壁では水軍の後軍を率いる。
主な出典
『三国志』魏書「二李臧文呂許典二龐閻伝」(呂虔伝)、『蒙求』。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
泰山の秩序を回復し、のちは徐州で刺史として民政を整えたことから、規律は秩序寄りに置いています。
賊を降して民を呼び戻し、泰山を安定させたことから、動機は民を安んじる側に置いています。炅母らの謀殺のような厳しい手段も、乱を鎮めるためのものと見ています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。