CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
呂壱
孫権に重用され、大臣まで告発した校事
呂壱は、呉の孫権に信任された校事で、官府や州郡の文書を調べる職にありました。陳寿は、その性格を苛酷で、法の運用が深刻だったと記し、顧雍や朱拠らを追及した記録もあります。呂壱を信任した孫権自身も、のち過ちを認めて謝罪しました。ここでの人物像は、記録に残る行動からの読みで、生まれつきの性格までは決めつけていません。
呉の校事(中書の典校)。孫権の信任を背景に官吏の文書を調べ、顧雍・朱拠らを追及した。不正が明らかになって処刑され、孫権は自らの過ちを認めて諸将に謝罪した。
THE WAY OF LIFE
呂壱の生き方
朱拠の部隊の銭が詐取された件で、呂壱は朱拠が受け取ったと疑い、担当者を拷問して死なせた。のち真相が分かり、朱拠は冤罪だったと分かる。信条を最も低く置いたのは、この記録などに基づく読みです。
校事は、官府や州郡の文書を調べる職で、孫権の信任を背景に、丞相の顧雍まで告発した。規律を高めに置いたのは、法を厳しく使う職務の記録に基づく読みで、公正だったという意味ではありません。
持ち味と、その裏側
孫権の信任を得て、官府や州郡の文書を調べる職を任された。善行や功績を伝える記録は、確認した正史に見つかっていません。是儀を告発する材料が見つからなかった、という記述もありますが、これは呂壱が公正だった証拠ではありません。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜赤烏元年(238年)または2年(239年)以降
呉に仕えた校事。出身の郡県、家系、生年は伝わらない。史料では「呂壹」と書かれる。
- 呉に仕えた校事。史料では「呂壹」と書かれる。官職は、呉主伝と潘濬伝が「校事」、顧雍伝と歩騭伝が「中書」、陸遜伝が「中書典校」、是儀伝が「典校郎」と記す。出身の郡県、家系、生年は、確認できない。
- 呉主伝(本文)は「孫権は校事の呂壹を信任したが、壹の性は苛惨で、法の運用は深刻だった」と記す。陳寿の人格評価である。太子の孫登がたびたび諫めたが、孫権は聞き入れず、大臣たちは発言を恐れた。
- 顧雍伝(本文)は、呂壹と秦博が中書として諸官府と州郡の文書を調べ、「榷酤障管の利」を作り、大臣を中傷して無実の者を陥れた、と記す。主語は呂壱一人ではなく、秦博らを含む。酒の専売や統制による利益を作ったという記録はあるが、呂壱個人の蓄財の額を記した文はない。
- 潘濬伝(本文)は、呂壹が丞相の顧雍や左将軍の朱拠らを奏上し、拘束させたと記す。黄門侍郎の謝厷が、顧雍が倒れれば潘濬が丞相になりうると呂壱に話し、呂壱は恐れて追及をやめた。潘濬は、宴席で自ら呂壱を殺すつもりでいたが、呂壱は察して病気を理由に欠席した。暗殺は、実行されていない。
- 朱拠伝(本文)は、朱拠の部隊に渡るはずの三万緡の銭を、工の王遂が詐取した事件を伝える。典校の呂壹は、朱拠が実際に受け取ったと疑い、担当者を拷問して死なせた。朱拠がその人を手厚く葬ると、口裏合わせの証拠だと疑った。数か月後に典軍吏の劉助が王遂の詐取を明らかにし、孫権は朱拠の冤罪を悟った。なお、呂壱が追及した朱拠と、のち謝罪の使者を受けた朱然は、別の人である。
- 是儀伝(本文)は、呂壹が前江夏太守の刁嘉を、国政を誹謗したと告発し、同席者が恐れて話を合わせるなか、是儀だけが聞いていないと答えたと記す。厳しく尋問されても変えず、是儀も刁嘉も罪を免れた。裴松之注に引く『文士伝』は、呂壱の賓客を処罰した建安太守の鄭冑が、呂壱に讒言され、潘濬らの助命で釈放されたと伝える。
- 陸遜伝(本文)は、呂壹が権柄を窃弄し、威福を擅にしたと記し、陸遜と潘濬は、これを憂えて涙を流すほどだった。歩騭の上疏(歩騭伝・本文)は、監察官たちが些細な落ち度を探し、無実の者まで重く罰していると訴え、「獄は賄賂で決まる」とも述べる。ただし主語は「諸典校」で、監察の制度全体への批判であり、呂壱一人のこととは言えない。
- 呂壱の不正が明らかになると、廷尉に拘束され、顧雍が審理に当たった。顧雍は穏やかに言い分を尋ねたが、呂壱は叩頭するだけで答えなかった。尚書郎の懐叙が面と向かって罵ると、顧雍は、法があるのだから辱める必要はない、と戒めた(顧雍伝・本文)。処刑されたことは呉主伝・歩騭伝に記されるが、誰が、どの刑を執行したかは、書かれていない。
- 処刑の年は、史料で食い違う。呉主伝は赤烏元年(238年)の記事に置くが、歩騭伝の上疏は赤烏2年(239年)正月の地震に触れたあとで呂壱を誅したと書き、『晋書』五行志も、239年正月の地震のとき呂壱が専権で、のち敗れたと記す。確定する材料はなく、238年または239年以降と書く。
- 呉主伝(本文)は、孫権が「咎を引き、躬を責め」、中書郎の袁礼を送って諸大将に謝罪させ、政治で改めるべき点を尋ねたと記す。そのあと諸葛瑾・歩騭・朱然・呂岱らに詔を出し、自分も過ちを免れないこと、率直な諫言を望むことを述べた。同時に、なぜ早く諫めなかったのか、と臣下を責める部分も含む。これは孫権の言葉であり、呂壱自身の反省ではない。
- のち、陸凱は孫晧に上疏し、校事は吏民の仇であり、孫権の晩年に校事の呂壱と銭欽が処罰されたと述べて、同様の制度の復活を戒めた(陸凱伝・本文)。ここでも、問題にされるのは、呂壱個人だけでなく、権力を集中させた監察の制度でもある。
- 呂壱の善行や功績を称えた記録は、確認した正史には見つからなかった。ただし、呂壱は孫権が任命し、権限を与えた官であり、責任を呂壱だけに負わせれば、孫権が諫言を退け続けたことや、権限の集中が見えなくなる。生まれつきの性格や、記録のない私生活は、決めつけない。『三国志演義』には、呂壱の登場を確認できなかった。
主な出典
『三国志』呉書 呉主伝・顧雍伝・歩騭伝・陸遜伝・潘濬伝・朱拠伝・是儀伝・陸凱伝(裴松之注に引く『文士伝』を含む)、『晋書』五行志
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・悪
校事という、法と文書を扱う職の権限で、法を厳しく適用した記録から、規律は秩序寄りとしています。ただし、虚偽の告発の記録もあり、公正さを意味するものではありません。
酒の専売による利益、無実の者への告発、拷問による死者など、他人を害した記録が複数あるため、動機は個人の権勢寄りに置いています。ただし、本人の内心は史書に書かれていません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。