CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
呂伯奢
逸話の中で曹操を迎えた、成皋の旧知
呂伯奢は、後漢末に成皋(せいこう)に住んでいた人物で、曹操の旧知とされます。董卓の任官を拒んで洛陽を離れた曹操が、その家を訪ねたという逸話が裴松之注に残っています。ただし『魏書』『世語』『孫盛雑記』で事件の経緯は大きく食い違い、本人の生年・没年・人柄を示す記録はありません。後世の『三国志演義』では、この事件が曹操と陳宮の決別の転機として描かれます。
後漢末、成皋に住んだ人物。曹操の旧知とされる。裴松之注に、曹操が家を訪ねた際の事件が三つの説で伝わるが、本人の経歴・没年は記録がない。
THE WAY OF LIFE
呂伯奢の生き方
『魏書』と『世語』は、曹操が訪ねたとき本人が不在だったと記す。本人の行動が記されないため、ここでは評価の材料にしていません。
『三国志演義』では、酒を買いに出かける親切な人物として描かれる。これは小説の創作であり、史実の善行としては採用していません。
持ち味と、その裏側
本人の能力や功績を示す記録はありません。家族が曹操を迎える準備をしていたことは『世語』に記されますが、本人の功績とはいえません。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年・没年ともに不明。中国語版Wikipediaの190年没という記述は、今回の史料では裏付けられません。
成皋に住んでいたと『魏書』が記す。出身地は不明。
- 曹操の旧知の人物として、『魏書』(裴注)に記される。成皋に住んでいた。
- 董卓の任官を拒み、姓名を変えて洛陽を離れた曹操が、逃れる途中で成皋の呂伯奢の家を訪ねたとされる(裴注『魏書』『世語』)。武帝紀本文の逃亡記事は中平6年(189年)に置かれている。
- 『魏書』(裴注)によれば、呂伯奢は不在で、その息子と賓客が曹操を襲って奪おうとしたため、曹操は反撃して数人を殺したという。
- 『世語』(裴注)によれば、呂伯奢は外出中で、五人の息子は客を迎える礼を整えていた。曹操は董卓の命に背いた自分が害されると疑い、夜に八人を殺したとされる。
- 孫盛『雑記』(裴注)によれば、食器の音を危害と誤解して夜に殺した。殺害後の「寧我負人,毋人負我」という言葉が伝わる。誰を何人殺したかは明確でない。
- 『三国志』本文の武帝紀は、この事件に触れていない。本文は「太祖乃變易姓名,間行東歸」と記すのみ。
- 『三国志演義』第四回では、家人が豚を殺す音を殺意と誤解した後、酒を買って戻った呂伯奢を曹操が斬る、という物語になっている(創作)。
- 本人の没年・死因・遺族のその後は、史料に記録がない。
- 後世の扱い:『三国志演義』では父の義兄弟という設定になっているが、これは裴注には見えない。ドラマ・漫画・ゲームでの描写は、史料とは分けて扱う。
主な出典
『三国志』巻1 武帝紀(本文は事件に触れない)、裴松之注(『魏書』『世語』『孫盛雑記』)、『三国志演義』第四回(小説)
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
本人の規律を示す記録がないため、中立に置いています。家族の行動の是非は、史料の食い違いがあるため判断していません。
本人の行動や言葉の記録がほぼないため、動機は中立に置いています。家族の行動(襲撃・歓待)は三つの説で食い違い、本人の人格や罪に結びつけることはできません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。