CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
吾彦
長江を鎖で断った、呉の最後の守将
吾彦は、字を士則といい、揚州呉郡呉県の人です。貧しい出で、身の丈八尺、素手で猛獣と組み合うほどの力があったと伝わります。陸抗に胆力を見込まれて取り立てられ、のちに建平太守となりました。晋が蜀で軍船を造っていると気づいて増兵を求めましたが、孫皓は聞き入れず、吾彦は自ら鉄の鎖で長江を断ちます。晋軍が攻め寄せ、長江沿いの城が次々と降るなか、建平だけは落ちず、晋軍は兵を退いて礼を尽くしました。呉が滅ぶと晋に仕え、交州刺史として二十年あまり南方を治めました。経歴は『晋書』吾彦伝をもとにしています。
揚州呉郡呉県の人。貧しい出から陸抗に取り立てられ、建平太守となった。晋の侵攻に備えて鉄の鎖で長江を断ち、呉の諸城が降るなかで建平を守り抜いた。呉の滅亡後は晋に仕え、交州刺史として二十年あまり南方を治めた。
THE WAY OF LIFE
吾彦の生き方
陸抗は、吾彦を取り立てる前に、諸将の集まる席で人に刀を抜いて暴れ込ませた。皆が逃げるなか、吾彦だけは動かず、机を掲げて防いだ。その胆力に皆が服し、取り立てが決まった。
呉の滅亡後、晋の武帝に呉が滅んだ理由を問われ、「呉主は英俊、宰輔は賢明。天命が尽きただけです」と答えた。張華に「呉の将として名を聞かなかった」と言われると、「陛下は私をご存じだ。あなたが聞いていないだけだ」と声を荒らげ、武帝はこれを褒めた。
持ち味と、その裏側
危機に動じない胆力と、先を見て備える眼。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年不詳(呉の末期〜西晋の初め)
揚州呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)
- 若い頃: 通江の県吏。南征する薛珝の軍の威容に嘆息し、人相見の劉札に「君もいずれこの地位に至る。羨むことはない」と言われる。
- 陸抗のもとで: 諸将の前で胆力を示し、取り立てられる。
- 鳳皇元年(272年): 陸抗に従い、晋に降った西陵督・歩闡を攻め、西陵を囲む。
- 建平太守: 晋の王濬が蜀で軍船を造るのに気づき増兵を求めるが退けられ、鉄の鎖で長江を断つ。
- 天紀4年(280年): 長江沿いの城が降るなか、建平を守り抜く。呉の滅亡後、晋に降り金城太守となる。
- 西晋で: 敦煌太守、雁門太守、順陽内史などを経て、陶璜の死後に交州刺史となる。九真の反乱を平定し、二十年あまり南方を治める。
- 交州刺史の頃: 陸機・陸雲に贈り物を退けられ、陸機にたびたび謗られるが、尹虞の諫めで収まる。
- 晩年: 自ら交代を願い出て、大長秋として朝廷に戻り、在官のまま亡くなる。
主な出典
『晋書』巻57 吾彦伝、『資治通鑑』巻81。『三国志演義』では第120回に、建平を守り抜き、呉の滅亡を知って晋に降る人物として登場する。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
規律4のため秩序。晋の順陽内史となった時、身を清く保って刑罰を厳しく整え、驕り高ぶる順陽王にも付け入る隙を与えなかった。
主君と国への忠義、任地の民の安定を重んじた。晋に降ってからも旧主の孫皓を貶めず、南方を長く治めた。動機は他者寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。