CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
向朗
馬謖をかばって免官され、八十を過ぎても自分で校書した蔵書家
向朗は、蜀の官僚で、のち当時最多の蔵書をもつ学者として知られました。若いころは司馬徽に学び、徐庶・龐統と親しく、劉備に従って蜀に入り、丞相長史まで務めます。ところが、街亭で敗れた馬謖が逃げたとき、親しかった馬謖の逃亡を知りながら報告せず、諸葛亮に免官されました。その後の二十年ほど、典籍を読み、八十を過ぎても自分で校勘し、訪ねてくる若者に古典を教えました。経歴は『三国志』蜀書「霍王向張楊費伝」をもとにしています。
襄陽郡宜城県の人で、字は巨達。幼くして父を亡くし、兄に養われた。若いころ司馬徽に師事し、徐庶・韓嵩・龐統と親しんだ。荊州牧劉表に臨沮長に任じられたが、208年に劉表が没すると劉備に帰した。劉備が江南を平定すると、秭帰・夷道・巫・夷陵の四県の軍民の事を督させた。蜀が平定されると巴西太守、まもなく牂牁太守に転じ、さらに房陵に移った。223年、後主が即位すると歩兵校尉となり、王連に代わって丞相長史を兼ねた。225年、諸葛亮が南征するとき、向朗は留まって後事を統べた。227年、諸葛亮に従って漢中へ行った。228年、街亭の敗戦で馬謖が逃亡した。向朗は昔から馬良・馬謖の兄弟を聖人のように奉じ、馬謖と親しかったので、逃亡を知りながら報告せず、諸葛亮は恨んで免官し、成都に帰らせた。数年後、光禄勲となった。234年に諸葛亮が没すると、左将軍に移り、旧功を追論して显明亭侯に封じられ、特進の位を得た。238年正月、劉禅が張氏を皇后に立てると、向朗は左将軍として丞相の事を行い、節を持って皇后の璽綬を授け、同じ月に劉璿を皇太子に立てる冊封も代行した。長史を去ってからは閑散無事に二十年ほど、典籍の研究に励み、八十を過ぎても自分で書を校勘して誤りを正した。所蔵の書は、当時最も多かった。門を開いて賓客を迎え、後進を誘い入れ、ただ古義を論じて時事には干与しなかったので、上は執政から下は童子まで、みな敬重した。247年に没し、子の向条が爵を継いだ。
THE WAY OF LIFE
向朗の生き方
街亭が崩れた。馬謖は逃げた。向朗は、馬謖の逃亡を知っていた。そして、言わなかった。昔から馬良・馬謖の兄弟を「聖人」のように仰いでいた人は、友を売れなかった。諸葛亮は恨んで、向朗を免官し、成都へ帰らせた。
それから二十年ほど、向朗は閑散としていた。若いころは学問を涉猟しても、身を修めることには励まず、吏の才で知られただけだった。その人が、典籍に潜心して、孜々として倦まなくなった。八十を過ぎても、自分の手で書を校し、誤りを正した。所蔵の書は、当時もっとも多かった。
門を開き、客を迎え、若い者を招き入れた。ただ古い書の意味を語り、時事には触れなかった。上は執政の大臣から、下は少年まで、みなこの老人を敬った。
持ち味と、その裏側
吏の才と、潜心して書を読む粘り。丞相長史として南征の後事を預かり、のち皇后と太子の冊封まで任された。書を積み、人に開き、教える姿勢は、私人の蔵書家が読者に蔵書を公開して導く先がけとされる。一方で、友への情が法に先立ち、馬謖の逃亡を黙った。廖立は「向朗や文恭は、凡俗の人だ」と言い、楊洪は「向朗は情偽が少ない(偽りが少ない)」と評した。誠実さと、友情に弱いところが、同じ根から出ている人。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
約167年〜延熙10年(247年)
荊州襄陽郡宜城県の人。字は巨達。司馬徽に師事した。兄の子に向寵・向充、子に向条。
- 襄陽郡宜城県の人で、字は巨達。幼くして父を亡くし、兄に育てられた。若いころは司馬徳操(司馬徽)に師事し、徐元直(徐庶)・韓徳高(韓嵩)・龐士元(龐統)と親しかった(『襄陽耆旧記』)。荊州牧の劉表に臨沮長に任じられた。
- 208年、劉表が没すると劉備に帰した。劉備が江南を平定すると、向朗に秭帰・夷道・巫・夷陵の四県の軍民の事を督させた。蜀が平定されると、巴西太守、まもなく牂牁太守に転じ、さらに房陵に移った。
- 223年、後主が即位すると、歩兵校尉となり、王連に代わって丞相長史を領した。225年に丞相諸葛亮が南征すると、向朗は留まって後事を統べた。
- 227年、諸葛亮に従って漢中へ行った。翌年、街亭の敗戦で、馬謖は逃亡した。向朗はもともと馬謖と仲がよく、廖立の言葉によれば、馬良・馬謖の兄弟を聖人のように奉じていた。そこで逃亡を知っていながら報告せず、諸葛亮は恨んで免官にし、成都に帰らせた。
- 数年して、光禄勲となった。234年に諸葛亮が没すると左将軍に移り、旧功を追論して显明亭侯に封じられ、位は特進となった。238年正月、劉禅が張氏を皇后に立てると、向朗に左将軍のまま丞相の事を行わせ、節を持って皇后の璽綬を授けさせた。同じ月に劉璿を皇太子に立てたときも、向朗が節を持って印綬を授けた。
- 向朗は少年のころ文学を涉猟したが、身を修める素検を治めず、吏の才で知られた。長史を去ってから閑散無事に二十年ほど(原文は「三十年に垂んとす」だが、裴松之は、免官の建興6年から没年の延熙10年までは満20年で、「三十」は字の誤りだと注する)、いっそう典籍に潜心して孜孜として倦まなかった。八十を過ぎても自分で書を校し、誤りを定め、積み上げた書は当時最も多かった。門を開いて客を迎え、後進を招き入れ、ただ古義を講論して時事に干与しなかったので、上は執政から下は童冠まで、みな敬重した。
- 247年(延熙10年)、没し、子の向条が爵を継いだ。著作はほとんど伝わらず、習鑿歯『襄陽記』に載る『遺言戒子』が一篇残る。蔵書を人に開き、読み方を導いたことは、私人の蔵書家が読者に蔵書を公開して指導した先がけとされる。兄の子の向寵(蜀の中領軍)は、向朗の甥にあたる。
- 『三国志演義』では第63回に登場し、龐統の死後、諸葛亮が益州へ向かう前に、関羽の荊州守備を補佐する文武官の一人に命じられる。
主な出典
『三国志』蜀書「霍王向張楊費伝」、『襄陽耆旧記』。経歴は 百度百科「向朗」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・中立
法より友への情を優先して馬謖の逃亡を黙った一方、免官後は時事に干与せず、静かに書を校した人です。ルールよりも情と自分の流儀で動いたことから、規律は裁量寄りに置いています。
馬謖をかばった動機は、公の利益ではなく、馬良・馬謖の兄弟への敬愛と友情でした。晩年は集めた書を開いて、見返りなく若者に教えました。国のためと個人の情のどちらか一方には定めがたく、動機が混在する人として、中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。