CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
司馬防
若き曹操を洛陽北部尉に推し、八人の子を厳しく育てた司馬家の父
司馬防は、字を建公といい、河内郡温県の人で、後漢末の官僚です。司馬懿の父にあたります。まっすぐで公正な人柄で、くつろいだ酒席でも威儀を崩さず、『漢書』の名臣列伝を好んで数十万言を諳んじたといいます。若き曹操を洛陽北部尉に推したとされ、のち魏王となった曹操に招かれて酒を酌み交わしました。八人の息子はみな名を知られ、「司馬八達」と呼ばれます。経歴は『三国志』の注などをもとにしています。
字は建公。河内郡温県の人。祖父の司馬量は豫章太守、父の司馬儁は潁川太守を務めた家の出。性格はまっすぐで公正、くつろいだ酒席でも威儀を崩さなかった。『漢書』の名臣列伝を好み、諳んじたものは数十万言に及んだという。若い頃から州郡に仕え、洛陽令・京兆尹を歴任し、年老いてから騎都尉に移った。その後は郷里で志を養い、門を閉ざして暮らした。尚書右丞のとき、若き曹操を洛陽北部尉に推したとされる(『曹瞞伝』。別に梁鵠が推したとする記録もある)。董卓が献帝を長安へ移したとき、治書御史として西へ従う立場にあったが、長男の司馬朗に家族を連れて郷里へ帰らせた。息子たちを厳しく育て、成人してからも「命じられなければ進まず、命じられなければ座らず、問われなければ口をきかない」ほどだった。219年に七十一歳で没した。
THE WAY OF LIFE
司馬防の生き方
曹操が魏王となると、司馬防を鄴に招いて酒を酌み交わし、「わしは今でも、尉が務まるかな」と尋ねた。司馬防は「あのとき大王をお推ししたのは、ちょうど尉にふさわしかったからです」と答え、曹操は大笑いした。
息子たちは成人してからも、父の前では命じられなければ進まず、座らず、問われなければ口をきかなかった。父と子の間は、いつも厳かだったという。八人の息子は、それぞれの字に「達」の字を持ち、みな名を知られて「司馬八達」と呼ばれた。
持ち味と、その裏側
人を見る目と、乱れない家風。宦官の家の出として侮られがちだった若い曹操を推したとされ、その曹操に後年もてなされた。息子の司馬朗・司馬懿・司馬孚らは、いずれも名を知られる人物に育った。董卓の時代には、長男に家族を連れて郷里へ帰らせ、家を守った。一方で、自らは年老いて騎都尉に退き、門を閉ざして世に出ることはなかった。1952年に出土した『司馬芳残碑』の司馬芳(字は文豫)を、司馬防と同一人物とする説がある。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
149年〜219年(享年七十一)
河内郡温県の人。字は建公。
- 149年: 河内郡温県に生まれる。祖父は豫章太守の司馬量、父は潁川太守の司馬儁。
- 若い頃: 州郡に仕える。『漢書』の名臣列伝を好み、数十万言を諳んじた。
- 174年頃: 尚書右丞として、二十歳の曹操を洛陽北部尉に推したとされる(『曹瞞伝』)。『四体書勢』序は、梁鵠が曹操を北部尉にしたと記す。
- のち: 洛陽令・京兆尹を歴任する。
- 190年: 董卓が献帝を長安へ移す。治書御史として西へ従う立場にあったが、長男の司馬朗に家族を連れて郷里の温県へ帰らせた。
- 晩年: 年老いて騎都尉に移り、郷里で門を閉ざして暮らした。
- 魏王の曹操と: 鄴に招かれて酒を酌み交わし、「今でも尉が務まるかな」と問われ、「あのときは、ちょうど尉にふさわしかったのです」と答えて、曹操を大笑いさせた。
- 219年: 七十一歳で没した。息子は司馬朗・司馬懿・司馬孚・司馬馗・司馬恂・司馬進・司馬通・司馬敏の八人で、「司馬八達」と呼ばれる。
- 名前の謎: 1952年に出土した『司馬芳残碑』の司馬芳(字は文豫)を、司馬防と同一人物とする説がある。
主な出典
『三国志』魏書「劉司馬梁張温賈伝」(司馬朗伝)の注に引く司馬彪『序伝』、「武帝紀」の注に引く『曹瞞伝』『四体書勢』序、『晋書』宣帝紀。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
礼法を重んじ、家の中でも父子の礼を厳しく守らせたことから、規律は秩序寄りに置いています。
家の礼を守り、息子たちを育て、乱世でも家を保とうとしたことから、動機は家と身内を守る側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。