CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
司馬朗
董卓を言葉でかわして一族を守り、疫病の陣で兵を看て倒れた兗州刺史
司馬朗は、字を伯達といい、河内郡温県の人で、司馬防の長男、司馬懿の兄です。「司馬八達」の長兄にあたります。董卓の時代に家族を連れて郷里へ帰ろうとして捕らえられますが、董卓を言葉でなだめて切り抜け、飢饉の中で一族を養い、弟たちを教え導きました。曹操に仕えてからは、鞭を使わない寛い統治で民に慕われ、兗州刺史となります。217年、呉への遠征の陣で疫病が広がると、自ら兵を見舞って薬を与え、感染して亡くなりました。経歴は『三国志』魏書をもとにしています。
字は伯達。河内郡温県の人。司馬防の長男で、司馬懿の兄。九歳のとき、客が父の字を呼び捨てにすると、「人の親を軽んじる者は、自分の親も敬っていないのです」と言い、客は謝った。十二歳で経書の試験に通って童子郎となったが、体が大きいので年を偽っていると疑われ、「私の一族は代々体が大きいのです。年を偽って早く出世しようとするのは、私の志ではありません」と答えた。董卓が献帝を長安へ移すと、父の命で家族を連れて郷里へ帰ろうとしたが、逃げようとしていると訴えられて董卓の前に引き出された。董卓に「お前は死んだわしの息子と同い年だ。なぜ背く」と責められると、民が逃げ出すのは戦乱のためだと説き、董卓を納得させた。董卓は必ず滅びると見て、側近に財物を贈って郷里へ帰り、村の長老たちに黎陽へ移るよう勧めたが、従ったのは同県の趙咨だけだった。数か月後、関東の諸軍が河内に集まって略奪し、民の半ばが死んだ。飢饉の中で一族を養い、弟たちを教え導いた。曹操に召されて司空掾属となり、成皋令・堂陽長・元城令を経て丞相主簿となる。州郡に兵を置くことと、井田制の復活を説いた。のち兗州刺史となり、粗衣粗食で倹約を率先し、民に称えられた。217年、夏侯惇・臧覇らと呉を討つ途中、居巣で疫病が広がると、自ら兵を見舞って医薬を与えたが、自らも感染して没した。四十七歳。
THE WAY OF LIFE
司馬朗の生き方
董卓の前に引き出されると、「明公は世に稀な徳で、宦官の穢れを払い、賢士を広く挙げられました。けれども戦乱は日ごとに広がり、民は家を捨てて逃げています。どうか少しお考えください」と説いた。董卓は「わしもそう思っていた。お前の言うことはもっともだ」と答えた。
堂陽長のとき、鞭を使わずに治めても、民は禁を犯さなかった。以前に都へ移された民が、司馬朗の県が船造りの人手に困るのを心配して、連れ立ってひそかに戻り、手伝ったという。
持ち味と、その裏側
先を見る目と、民に慕われる寛い統治。董卓の滅亡も、河内が戦場になることも見通して、一族を守った。曹操のもとでは州郡に兵を置くことを説き、これはのちの州郡の兵の制度のもとになったとされる。同郷の李覿らが名声を集めていたときも、その人柄を公然と低く評し、のちに李覿らが失敗して、人々は司馬朗の目を認めた。鍾繇・王粲が「聖人でなければ太平は致せない」と論じたときは、「伊尹や顔回のような人が数代続けば、太平は致せる」と答えた。陳寿は、州を治めた刺史たちを「事の機微に通じ、威と恩を兼ねた」と評している。死に際しては「布衣と幅巾で、季節の服のまま葬れ」と遺言し、兗州の人々は長く彼を偲んだ。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
171年〜217年(享年四十七)
河内郡温県の人。字は伯達。
- 171年: 河内郡温県に、司馬防の長男として生まれる。
- 九歳: 父の字を呼び捨てにした客をたしなめ、客は謝った。
- 十二歳: 経書の試験に通って童子郎となる。体が大きく年を偽っていると疑われたが、毅然と答えた。
- 190年頃: 関東で兵が起こると、冀州の元刺史・李邵が野王から温県へ移ろうとした。司馬朗は、民心を乱すと止めたが聞き入れられず、山沿いの民は乱れた。
- 190年: 董卓が献帝を長安へ移す。父の命で家族を連れて郷里へ帰ろうとして捕らえられ、董卓の前に引き出されたが、言葉で納得させた。
- その後: 側近に財物を贈って郷里へ帰り、長老たちに黎陽へ移るよう勧めた。従ったのは趙咨だけで、数か月後、集まった諸軍の略奪で民の半ばが死んだ。
- 曹操と呂布が濮陽で争った頃: 家族を連れて温県へ戻る。飢饉の中で一族を養い、弟たちを教え導いた。
- 曹操に仕える: 司空掾属となり、成皋令(病で辞す)、堂陽長、元城令、丞相主簿を歴任した。
- 提言: 州郡に兵を置くこと、井田制の復活を説いた。採られなかったが、州郡が兵を持つのは司馬朗の考えだったという。
- 兗州刺史: 粗衣粗食で倹約を率先し、民に称えられた。
- 217年: 夏侯惇・臧覇らと呉を討つ途中、居巣で疫病が広がる。自ら兵を見舞って医薬を与え、感染して没した。四十七歳。遺言は「布衣と幅巾で、季節の服のまま葬れ」。
- のち: 曹叡の即位後、子の司馬遺が昌武亭侯に封じられた。弟の司馬孚の子・司馬望が後を継いだ。
- 年齢の食い違い: 本伝の「二十二歳で司空掾属」と「四十七歳で没」は合わないため、どちらかが誤りとされる。
主な出典
『三国志』魏書「劉司馬梁張温賈伝」(司馬朗伝)と、その注に引く『魏書』。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
礼を重んじる家で育ち、刺史として法と倹約で州を整えたことから、規律は秩序寄りに置いています。
一族と民を守り、疫病の兵を自ら見舞って倒れたことから、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。