CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
司馬孚
晋の太宰になっても、魏の臣として生き抜いた司馬懿の弟
司馬孚は、字を叔達といい、司馬防の三男で、司馬懿の弟です。曹操に仕え、最初の官職は曹植の文学掾で、奔放さを諫めたと伝わります。曹叡の時代には度支尚書として、兄の司馬懿の諸葛亮との戦いを後方から支えました。甘露5年(260年)に曹髦が殺されると、遺体にすがって号泣し、王侯の格式で葬る許可を得ます。265年に晋が建つと安平王・太宰に任じられましたが、元帝の手を取り、生涯魏の臣下であり続けると涙ながらに述べたと伝わります。泰始8年(272年)に亡くなりました。経歴は『晋書』安平献王孚伝をもとにしています。
司馬防の三男で、司馬懿の弟。字は叔達。曹操の時代から魏に仕え、曹髦が殺されたときは遺体にすがって泣き、王侯の礼で葬るよう取り計らった。晋が建つと安平王・太宰となったが、生涯魏の臣であると述べたと伝わる。272年に没した。
THE WAY OF LIFE
司馬孚の生き方
曹植の奔放さを諫め、曹操の葬儀では曹丕の哭礼が激しすぎると諫めた。相手が誰でも言うべきことを言う人物像で、信条を高く置いています。
高平陵の変では宮城の門を押さえ、のちに曹髦の遺体にすがって泣いた。兄の家の側に立ちながら、魏への思いも手放さなかった人物像です。
持ち味と、その裏側
曹操から曹奐まで、五代の魏の主に仕えた誠実さ。後方を支える実務の力。人を恨んだことがないと『晋書』が伝える温厚さ。一方で、司馬氏が魏を奪う流れを止めることはできず、決断や挑戦は控えめに置いています。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年未詳〜泰始8年(272年)
河内郡温県の人。司馬防の三男。字は叔達。兄は司馬朗・司馬懿。甥に司馬師・司馬昭。諡は献。
- 河内郡温県の司馬防の三男として生まれた。兄は司馬朗と司馬懿。生年は伝わらないが、享年93とされる(日本語版Wikipedia)。
- 曹操に仕え、最初の官職は曹植の文学掾だった。曹植の奔放さを諫め、曹植は後に非を認めて、司馬孚を厚く遇したという。
- 曹操の葬儀では、曹丕の哭礼が激しすぎるとして諫めたと伝わる。
- 明帝(曹叡)のとき、度支尚書に抜擢された。兄の司馬懿の対諸葛亮戦を、後方から支えた。『晋書』は、明帝が「わしは二人の司馬懿を得た」と言ったと伝える。
- 正始10年(249年)の高平陵の変では、尚書令として洛陽の宮城の城門を押さえた。曹爽を除いたあと、嘉平3年(251年)2月に司空、7月に太尉となった。
- 嘉平5年(253年)7月、20万の兵を率いて合肥新城の包囲を解き、諸葛恪を撤退させた。
- 甘露5年(260年)、曹髦が殺されると、司馬孚は遺体にすがって号泣した。司馬昭が、太后の命として庶人の格式で葬ろうとしたとき、司馬孚はこれに反対した。皇太后に上奏して、王侯の格式で葬る許可を得た。
- 泰始元年(265年)、司馬炎が即位し、元帝(曹奐)が金墉城に移された。司馬孚は曹奐の手を取り、生涯魏の臣下であり続けると、涙ながらに述べたと伝わる。司馬炎は安平王に封じ、太宰に任じたが、司馬孚は鬱々として楽しまなかったという。
- 泰始8年(272年)2月に没した。享年93。諡は献。葬儀は後漢の東平王劉蒼の例にならい、国葬の扱いで行われた。のちの斉王司馬攸の葬儀も、これにならったとされる。
- 『晋書』は、司馬孚を温厚で誠実な人物とし、人を恨んだことがないと伝える。ただし『晋書』は晋の側が編んだ史書で、魏への忠節を美化している可能性は残る。
主な出典
『晋書』安平献王孚伝、『三国志』魏書、日本語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
礼や筋道を重んじる行動が多く、規律は高めに置いています。
曹植や曹丕を諫めた逸話、曹髦の葬礼をめぐる行動から、動機は他者寄りの側に置いています。ただし多くは『晋書』の記述です。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。