CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
司馬乂
帝を奉じて洛陽の三日の市街戦に勝ち、兄弟の大軍を退けながら、味方に売られて焼かれた長沙王
司馬乂は、字を士度といい、晋の武帝・司馬炎の六男で、長沙王です。背が高く、明るく決断が早く、人並み外れた力を持ちながら、へりくだって士を迎えたと伝わります。八王の乱のさなか、302年に専権をふるう斉王・司馬冏を、恵帝を奉じた三日の市街戦で討ち、実権を握りました。翌年からは、弟の成都王・司馬穎と、一族の河間王・司馬顒の大軍を相手に洛陽を守り抜き、優勢に立ちます。しかし304年、味方の東海王・司馬越に捕らえられて金墉城に送られ、敵将の張方に焼き殺されました。二十八歳でした。経歴は『晋書』長沙王乂伝をもとにしています。
字は士度。晋の武帝・司馬炎の六男で、母は審美人。同じ母の兄に楚王・司馬瑋がいる。289年に長沙王に封じられた。290年、十五歳で父を亡くすと、慕う思いは礼を超え、ほかの王たちが近道で楚王を迎えるなか、一人だけ陵に行き、泣き叫びながら待った。291年、楚王が汝南王・司馬亮と衛瓘を殺したとき、東掖門を守っていたが、偽の詔だと告げる旗が出ると、弓を投げ捨てて泣いた。楚王が誅されると、同じ母の弟として常山王に落とされ、封国へ移された。301年、趙王・司馬倫が帝位を奪うと、国の兵を率いて斉王・成都王らの挙兵に加わり、撫軍大将軍、のち驃騎将軍となって長沙王に戻った。302年、専権をふるう斉王・司馬冏を、恵帝を奉じた三日の市街戦で討ち取り、その一党二千余人を誅した。303年、河間王・司馬顒と成都王・司馬穎が大軍で洛陽を囲むと、大都督としてこれを防ぎ、八月から十月まで戦い続けた。304年正月までに、前後六、七万の敵を斬り、あるいは捕らえた。城中は飢えたが、将兵は心を一つにして死力を尽くそうとし、敵将の張方は勝てないと見て長安へ帰ろうとした。しかし東海王・司馬越は事が成らないと考え、殿中の将とひそかに司馬乂を捕らえて金墉城へ送った。正月二十七日(『資治通鉴』は二十八日)、張方の部将に焼き殺された。二十八歳。死後、晋の懐帝によって「厲」と諡された。
THE WAY OF LIFE
司馬乂の生き方
302年、斉王の部将・董艾に襲われると、身の回りの百人余りを率い、車の前の幕を手で切り払って、屋根のない車で宮城へ駆け込み、門を閉ざして恵帝を奉じた。斉王の側が「長沙王が詔を偽っている」と叫ぶと、司馬乂は「大司馬(斉王)が謀反した。味方する者は五族を誅する」と応じた。その夜、城中は矢が雨のように飛び、火が天を焦がした。三日の戦いの末に斉王を捕らえると、恵帝は哀れんで命を助けたそうな顔をしたが、司馬乂は左右を叱って引き出させ、閶闔門の外で斬った。
捕らえられて金墉城へ送られたとき、上表して「臣は身も命も惜しみません。ただ、大晋が衰え、宗室の枝葉が切り尽くされ、陛下が孤立してしまうことを思うのです。臣が死んで国が安らぐなら、それもよいでしょう。けれども、悪人を喜ばせるだけで、陛下には何の益もないのではと恐れます」と述べた。焼かれるときの叫びは周りに響き、三軍で泣かない者はなかった。葬送には部下の誰も行こうとしなかったが、かつての属官・劉佑だけが、歩いて棺の車に付き添い、泣き叫んで息も絶えそうだった。
持ち味と、その裏側
決断の速さと、兵を一つにまとめる力。『晋書』は「身の丈七尺五寸、明るく決断が早く、才力は人に絶し、へりくだって士を迎え、評判が高かった」と記す。洛陽の籠城では、飢えの中でも将兵が心を合わせ、兄弟の大軍を何度も退けた。『晋書』の論は「長沙王の才力は人に絶し、忠義の気概は世に抜きん出ていた。掖門で弓を投げ、宮城へ車を駆った姿には、烈士の風があった」と称え、「国を奉じて始めから終わりまで悪事はなく、あと一歩で功を逃し、むごたらしく殺された」と惜しんだ。一方で、何法盛の『晋中興書』や『世説新語』は「小人に親しみ、君子を遠ざけ、朝廷の者はみな身の危険を感じていた」と記し、評価は大きく分かれる。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
277年〜304年(享年二十八)
河内郡温県の人。洛陽に生まれる。字は士度。
- 277年: 晋の武帝・司馬炎の六男として、洛陽に生まれる。母は審美人。同じ母の兄に楚王・司馬瑋。
- 289年: 長沙王に封じられ、員外散騎常侍となる。
- 290年: 父の武帝が没する。十五歳。陵で泣きながら楚王を待った。歩兵校尉となる。
- 291年: 楚王が汝南王・司馬亮と衛瓘を殺す。東掖門を守っていたが、偽の詔だと知って弓を投げて泣いた。楚王が誅されると、常山王に落とされて封国へ移る。
- 301年: 趙王・司馬倫が帝位を奪う。国の兵を率いて斉王・成都王らに加わり、成都王の後詰めとなった。抵抗した房子県令と、背こうとした常山内史・程恢とその五人の子を斬った。洛陽で撫軍大将軍となり、七月に驃騎将軍・開府となって長沙王に戻る。
- 斉王の専権のもとで: 王豹が「王たちを封国へ帰せ」と斉王に説くと、司馬乂は「骨肉の仲を裂く小僧を、なぜ殺さないのか」と勧め、王豹は殺された。王豹は死に際に「わが首を大司馬の門に懸けよ。斉が攻められるのを見届けよう」と言った。
- 302年: 河間王の檄に応じて内応する。斉王に襲われると宮城に駆け込み、恵帝を奉じて三日の市街戦の末に斉王を討った。一党二千余人を誅し、三族を滅ぼした。
- 303年: 河間王・成都王が洛陽を攻める。送り込まれた刺客を、部下の王矩が見破って斬った。大都督として八月から十月まで戦い、成都王と手紙をやり取りして兵を引くよう説いたが、聞き入れられなかった。成都王の大軍を率いたのは陸機だった。
- 304年正月: 前後六、七万の敵を斬り、あるいは捕らえ、優勢に立つ。しかし東海王・司馬越に捕らえられ、金墉城へ送られる。二十七日(『資治通鉴』は二十八日)、張方の部将・郅輔に焼き殺された。二十八歳。
- 死後: 部下の誰も葬送に行かないなか、劉佑だけが付き添って泣いた。張方は劉佑を義士として咎めなかった。のちに懐帝が「厲」と諡した。
- 謡: 司馬乂が政を執りはじめた頃、洛陽で「草木が芽吹けば、長沙を殺す」という謡がはやり、正月に殺されて、その通りになったという。
主な出典
『晋書』長沙厲王乂伝(巻五十九)、同 斉王冏伝・劉暾伝・王豹伝、『資治通鉴』巻八十四、『世説新語』、何法盛『晋中興書』。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
弓を投げて偽の詔に従ったことを悔い、最後まで皇帝を奉じて礼を欠かさなかったことから、規律はやや秩序寄りに置いています。
最後まで恵帝を奉じて礼を欠かさなかった一方、自分たちの立場を脅かす王豹の処刑を勧め、斉王の一党を三族まで滅ぼしたことから、帝室への忠と自らの権勢のどちらとも定めにくく、動機は中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。