CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
厳畯
軍の要職を涙で辞退し、旧友を救って罷免された呉の学者
厳畯は、字を曼才といい、彭城の人です。戦乱を避けて江東に渡り、諸葛瑾や歩騭と並び称される親友となりました。張昭の推薦で孫権に仕え、217年に魯粛が没すると、後任として一万の兵を率いて陸口を守るよう命じられます。しかし「私は一介の書生で、軍事を知りません」と、涙を流して固辞しました。のち衛尉・尚書令となり、俸禄は親戚や旧友に分けて、家は貧しかったといいます。経歴は『三国志』呉書をもとにしています。
字は曼才。彭城の人。若い頃から学問を好み、『詩経』『書経』や三礼に通じ、『説文解字』を好んだ。戦乱を避けて江東に移り、諸葛瑾・歩騭と並び称される親友となった。質朴で誠実な性格で、人には忠告して善い道へ導き、補い益することを心がけた。張昭に推薦されて孫権に仕え、騎都尉・従事中郎となる。217年に魯粛が没すると、孫権は厳畯に、一万の兵を率いて陸口を守らせようとしたが、「私は朴素な書生で、軍事を知りません。才のない者がこの任に就けば、咎めと後悔が必ず来ます」と、涙を流して再三固辞した。孫権は聞き入れ、呂蒙を後任とした。孫権が帝位に即くと衛尉となり、蜀へ使者に立って諸葛亮に深く評価された。のち友人をかばって罷免されたが、しばらくして尚書令に復した。78歳で没した。
THE WAY OF LIFE
厳畯の生き方
魯粛の後任という大きな任を、涙ながらに辞退した。「才がないのに居座れば、咎めが来る」という理由で、孫権は無理強いせず、世の人は「実力をわきまえた」と称えた。
友人の劉穎が、病と偽って孫権の招きを断ったとき、厳畯はそれを知りながら急ぎ知らせ、戻って謝罪するよう促した。孫権は怒って厳畯を罷免したが、劉穎は罪を免れた。のちに孫権は処置を悔い、厳畯を尚書令に取り立てた。
持ち味と、その裏側
誠実さと、学問への誠意。『孝経伝』『潮水論』を著し、裴玄・張承と管仲や子路について論じた文章が世に伝わる。『潮水論』は、中国で最も早い潮汐の専門書とされるが、早くに失われた。陳寿は、栄誉を辞して旧友を助けたことを「長者の風」と評し、周昭は、名声や党派を争わなかった点で厳畯を称えた。孫登は遺言で、諸葛瑾・歩騭らとともに厳畯を「国に忠誠を尽くし、統治の要に通じた人」に挙げた。一方、孫権から子供の頃に読んだ文章を読むよう命じられ、『孝経』の冒頭の「仲尼居」を読んだところ、張昭に「学問ばかりで世間知らず」と評された逸話も残る。『三国志演義』では、赤壁の前に諸葛亮と論戦する儒者の一人で、「孔明はどの経書を治めたのか」と問うて、「章を尋ね句を摘むのは世の腐儒だ」と斥けられる。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜241年以降(享年七十八)
彭城の人。字は曼才。
- 若い頃: 学問を好み、『詩経』『書経』『三礼』に通じ、『説文解字』を好んだ。
- 後漢末: 戦乱を避けて江東に移り、諸葛瑾・歩騭と並び称される親友となる。
- 張昭の推薦: 孫権に仕え、騎都尉・従事中郎となる。
- 217年: 魯粛が没すると、孫権は厳畯に後任を命じ、一万の兵を率いて陸口を守らせようとした。厳畯は「朴素な書生で、軍事を知らない」と涙を流して固辞し、孫権は呂蒙を後任とした。世の人は、実力をわきまえた態度を称えた。
- 229年: 孫権が帝位に即くと衛尉となる。蜀へ使者に立ち、諸葛亮に深く評価された。
- のち: 友人・劉穎が、病と偽って招きを断ったことを知り、急ぎ知らせて謝罪を促したため、孫権の怒りを買って罷免された。しばらくして尚書令に復した。
- 没年: 78歳で没した。241年に没した孫登の遺言に名が見えるため、それ以降の死去と考えられている。
- 『三国志演義』: 赤壁の前、孫権のもとで諸葛亮と論戦する群儒の一人として登場する。
主な出典
『三国志』呉書「張厳程闞薛伝」(厳畯伝)。経歴は Wikipedia「厳畯」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
学問に根ざした礼法の人である一方、友人を救うために主君の怒りを買うことも恐れなかったことから、規律は秩序寄りに置いています。
自分の栄達より、友人を助けること、任に堪える者に任せることを選んだ。他者のために動いたことから、動機は利他に寄せています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。