CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
劉馥
単騎で合肥に入り、揚州の礎を築いた統治者
劉馥は、字を元穎といい、豫州沛国相県の人です。袁術の部将の戚寄・秦翊を説得して、ともに曹操に帰順しました。建安5年(200年)、前任の厳象が殺されて、梅乾・雷緒・陳蘭らが数万の兵を集めて荒らしている揚州へ、刺史として赴きます。単騎で人のいない合肥の城に入って政庁を建て、雷緒らをなだめて帰順させました。屯田と灌漑を進め、学校を建て、芍陂・茹陂などの堰を整えて、流民が集まります。208年に亡くなると、揚州の人々はその死を惜しみ、築いた城壁や蓄えは、のちに孫権が合肥を攻めたとき、守りに役立ったとされます。経歴は『三国志』魏書 劉馥伝をもとにしています。
曹操の揚州刺史。200年に単騎で合肥に州治を築き、屯田と灌漑で揚州を立て直した。
THE WAY OF LIFE
劉馥の生き方
地道に民の暮らしを整える。劉馥は、先を見通す構想力と、民の信頼を集める誠実さを併せ持つ人物像です。
目立つ戦功よりも、田畑と堤を残した。構想と動機の高さと、表現の低さに、その静かな実務家ぶりを重ねています。
持ち味と、その裏側
先を見通して、農地・水利・学校まで整える構想力と、危険な任地にも単身で入る胆力。一方で、派手さに欠け、功績が目立ちにくいところがあります。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜建安13年(208年)
豫州沛国相県の人。字は元穎。
- 袁術の部将の戚寄・秦翊を説得して、ともに曹操に帰順し、司徒掾となった。
- 建安5年(200年)、前任の厳象が殺され、梅乾・雷緒・陳蘭らが数万の兵を集めて、江水・淮水の間を荒らしているところに、揚州刺史として赴いた。
- 単騎で、人のいない合肥の城に入り、州の政庁を建てた。雷緒らをなだめて帰順させた。
- 屯田と灌漑を進め、学校を建て、芍陂・茹陂などの堰を整えた。流民が集まり、帰順する者は万を数えた。
- 208年に亡くなり、揚州の人々はその死を惜しんだ。築いた城壁や堤、蓄えは、のちに孫権が合肥を攻めたとき、守りに役立ったとされる。
- 子の劉靖は鎮北将軍、孫の劉弘は晋の荊州刺史となった。
- 『三国志演義』では、赤壁の戦いの前の宴で、曹操の詩に異を唱えて、酔った曹操に殺される。
主な出典
『三国志』魏書 劉馥伝、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
朝廷の官職の枠の中で、制度と政治を整えた姿から、規律は中間としています。
流民が集まるほど民に慕われた統治から、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。