CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
劉虞
異民族を徳で懐け、皇帝への擁立も断ったが、公孫瓚に敗れた幽州牧
劉虞は、字を伯安といい、光武帝の長男の末裔で、徐州東海郡郯県の人です。幽州刺史として異民族を懐柔し、周辺の略奪も止んだといいます。中平4年(187年)の張純・張挙の乱のあと幽州牧となり、袁紹や韓馥に皇帝へ擁立されかけても受けず、田疇と鮮于銀を使者として献帝へ送り続けました。袁術に求められて兵を出したことなどから公孫瓚との対立が深まり、初平4年(193年)、10万余りの軍で攻めようとして、火攻めで敗れて捕らえられます。市中を引き回されたうえ処刑され、元部下の尾敦が首を奪って墓に葬りました。倹約を信条とし、破れた冠も繕って使ったと伝わります。経歴は『後漢書』劉虞伝と『三国志』魏書 公孫瓚伝をもとにしています。
光武帝の長男の末裔で、字は伯安。幽州刺史として烏桓や鮮卑を懐柔し、張純の乱の後は幽州牧となった。袁紹らの皇帝擁立を断り、献帝へ使者を送り続けた。193年、部下の公孫瓚との対立の末に敗れ、処刑された。
THE WAY OF LIFE
劉虞の生き方
北の異民族に武力でなく恩で向き合った。倹約を守り、破れた冠も繕って使ったと伝わる人物像です。
袁紹や韓馥から皇帝に推されても、受けなかった。信条と規律は高めに置いています。
持ち味と、その裏側
異民族を懐柔して北方を安定させた手腕と、倹約と節度を守る姿勢。皇帝の座を拒み、献帝への忠義を貫いた信念。一方で、武将の公孫瓚を抑えきれず、大軍を率いても守りを突かれて敗れたため、決断と統率は低めに置いています。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年未詳〜初平4年(193年)
徐州東海郡郯県の人。字は伯安。東海恭王劉彊の末裔。祖父は劉嘉、父は劉舒。子に劉和。
- 徐州東海郡郯県の人で、字は伯安。光武帝の長男・東海恭王劉彊の末裔にあたる。祖父は光禄勲の劉嘉、父は丹陽太守の劉舒だった。魏の劉曄は遠戚とされる。
- 郯県の戸曹の役人から出発し、孝廉に推されて郎となった。のち幽州刺史に就くと、異民族が朝貢するようになり、周辺の略奪も止んだという。
- 中平元年(184年)、黄巾の乱のとき甘陵国の相となった。その後、尚書令、光禄勲を経て宗正に転じた。
- 中平4年(187年)、張純・張挙が烏桓の丘力居と結んで反乱を起こした。翌年、劉虞は幽州牧に任じられ、丘力居は戦わずに帰順した。張純は鮮卑のもとへ逃れ、間もなく食客の王政に殺されて、乱は収まった。
- 同じ年、太尉に昇って容丘侯に封じられた。9月に董卓が献帝を立てると、大司馬に昇り、襄賁侯に封じられた。
- 初平元年のころ、袁紹や韓馥が劉虞を皇帝に立てようとしたが、劉虞は受けなかった。日本語版Wikipediaは年を191年と記すが、初平元年は190年にあたり、年は要確認。
- 董卓が長安に遷都したあと、劉虞は田疇と鮮于銀を使者として献帝のもとへ送った。献帝は洛陽に戻ることを望み、侍中の劉和を劉虞のもとへ遣わそうとした。しかし劉和は南陽で袁術に引き止められた。
- 袁術は劉虞に兵を求めた。劉虞は公孫瓚の諫めを聞かず、数千の騎兵を劉和のもとへ送った。これが、公孫瓚との対立を深めた。
- 劉虞は、公孫瓚の用兵を抑えるため兵糧を削った。公孫瓚は異民族への物資を略奪し、劉虞は討伐を考えた。東曹掾の魏攸の諫めで一度はとどまったが、初平4年(193年)に魏攸が病没した。
- 同年10月、劉虞は10万余りの軍を集めて公孫瓚を討とうとした。従事の程緒は進言を退けられて斬られ、従事の公孫紀は作戦を公孫瓚に密告した。公孫瓚は民衆を盾に籠城し、火攻めで劉虞軍を破って、劉虞を捕らえた。
- 公孫瓚は劉虞を市中で引き回したあと処刑し、『皇帝を僭称しようとした賊』として首を都へ送ろうとした。元部下の尾敦が途中で首を奪って、墓に葬った。のち公孫瓚の評判は落ち、烏桓の造反が続いて、北方は動揺した。
- 倹約を信条とし、破れた冠も繕って使ったと伝わる。公孫瓚の兵が屋敷を捜索すると、妻妾が絹の服で着飾っていたため、人々は劉虞の本性を疑ったという。ただし、これは日本語版が伝える逸話で、原文の確認はできていない。
主な出典
『三国志』魏書 公孫瓚伝、『後漢書』劉虞伝、裴松之注に引く『呉書』、日本語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
朝廷への忠を守り、皇帝擁立を断った行動から、規律は高めに置いています。
異民族を力で抑えず、擁立を断って献帝への忠を守った行動から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。