三國志人物鑑 CHRONICLES OF YOUR SOUL

THE ADDITIONAL CHRONICLE

逸伝篇について

本編の108人に入りきらなかった人物を、あとから書き足していく追加篇です。ONにすると、診断の候補と人物図鑑に、逸伝篇の人物が加わります。

ONとOFFで変わること

OFFのときは、本編108人だけが対象です。ONにすると、診断の結果に逸伝篇の人物が出ることがあり、図鑑にも「逸伝」の一覧と「隠れた人々」が増えます。結果は、ONかOFFかで変わることがあります。

切り替えについて

この画面の上のスイッチで、いつでも切り替えられます。診断の途中で切り替えても、回答は残ります(結果の候補だけが、結果が出る時点の設定になります)。既読の記録は、ONでもOFFでも保たれます。初期設定はOFFです。

人物について

逸伝篇には、史書に記録の少ない人物や、『三国志演義』などの物語の中で知られる人物も含まれます。物語の人物は、人物ページにそのことと出典を書いています。人物像やアラインメントは、本編と同じく、本サイト独自の解釈です。

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CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇

劉虞

異民族を徳で懐け、皇帝への擁立も断ったが、公孫瓚に敗れた幽州牧

劉虞は、字を伯安といい、光武帝の長男の末裔で、徐州東海郡郯県の人です。幽州刺史として異民族を懐柔し、周辺の略奪も止んだといいます。中平4年(187年)の張純・張挙の乱のあと幽州牧となり、袁紹や韓馥に皇帝へ擁立されかけても受けず、田疇と鮮于銀を使者として献帝へ送り続けました。袁術に求められて兵を出したことなどから公孫瓚との対立が深まり、初平4年(193年)、10万余りの軍で攻めようとして、火攻めで敗れて捕らえられます。市中を引き回されたうえ処刑され、元部下の尾敦が首を奪って墓に葬りました。倹約を信条とし、破れた冠も繕って使ったと伝わります。経歴は『後漢書』劉虞伝と『三国志』魏書 公孫瓚伝をもとにしています。

光武帝の長男の末裔で、字は伯安。幽州刺史として烏桓や鮮卑を懐柔し、張純の乱の後は幽州牧となった。袁紹らの皇帝擁立を断り、献帝へ使者を送り続けた。193年、部下の公孫瓚との対立の末に敗れ、処刑された。

THE WAY OF LIFE

劉虞の生き方

北の異民族に武力でなく恩で向き合った。倹約を守り、破れた冠も繕って使ったと伝わる人物像です。

袁紹や韓馥から皇帝に推されても、受けなかった。信条と規律は高めに置いています。

持ち味と、その裏側

異民族を懐柔して北方を安定させた手腕と、倹約と節度を守る姿勢。皇帝の座を拒み、献帝への忠義を貫いた信念。一方で、武将の公孫瓚を抑えきれず、大軍を率いても守りを突かれて敗れたため、決断と統率は低めに置いています。

IN THE CHRONICLES

史実・物語の歩み(概略)

生年未詳〜初平4年(193年)

徐州東海郡郯県の人。字は伯安。東海恭王劉彊の末裔。祖父は劉嘉、父は劉舒。子に劉和。

  1. 徐州東海郡郯県の人で、字は伯安。光武帝の長男・東海恭王劉彊の末裔にあたる。祖父は光禄勲の劉嘉、父は丹陽太守の劉舒だった。魏の劉曄は遠戚とされる。
  2. 郯県の戸曹の役人から出発し、孝廉に推されて郎となった。のち幽州刺史に就くと、異民族が朝貢するようになり、周辺の略奪も止んだという。
  3. 中平元年(184年)、黄巾の乱のとき甘陵国の相となった。その後、尚書令、光禄勲を経て宗正に転じた。
  4. 中平4年(187年)、張純・張挙が烏桓の丘力居と結んで反乱を起こした。翌年、劉虞は幽州牧に任じられ、丘力居は戦わずに帰順した。張純は鮮卑のもとへ逃れ、間もなく食客の王政に殺されて、乱は収まった。
  5. 同じ年、太尉に昇って容丘侯に封じられた。9月に董卓が献帝を立てると、大司馬に昇り、襄賁侯に封じられた。
  6. 初平元年のころ、袁紹や韓馥が劉虞を皇帝に立てようとしたが、劉虞は受けなかった。日本語版Wikipediaは年を191年と記すが、初平元年は190年にあたり、年は要確認。
  7. 董卓が長安に遷都したあと、劉虞は田疇と鮮于銀を使者として献帝のもとへ送った。献帝は洛陽に戻ることを望み、侍中の劉和を劉虞のもとへ遣わそうとした。しかし劉和は南陽で袁術に引き止められた。
  8. 袁術は劉虞に兵を求めた。劉虞は公孫瓚の諫めを聞かず、数千の騎兵を劉和のもとへ送った。これが、公孫瓚との対立を深めた。
  9. 劉虞は、公孫瓚の用兵を抑えるため兵糧を削った。公孫瓚は異民族への物資を略奪し、劉虞は討伐を考えた。東曹掾の魏攸の諫めで一度はとどまったが、初平4年(193年)に魏攸が病没した。
  10. 同年10月、劉虞は10万余りの軍を集めて公孫瓚を討とうとした。従事の程緒は進言を退けられて斬られ、従事の公孫紀は作戦を公孫瓚に密告した。公孫瓚は民衆を盾に籠城し、火攻めで劉虞軍を破って、劉虞を捕らえた。
  11. 公孫瓚は劉虞を市中で引き回したあと処刑し、『皇帝を僭称しようとした賊』として首を都へ送ろうとした。元部下の尾敦が途中で首を奪って、墓に葬った。のち公孫瓚の評判は落ち、烏桓の造反が続いて、北方は動揺した。
  12. 倹約を信条とし、破れた冠も繕って使ったと伝わる。公孫瓚の兵が屋敷を捜索すると、妻妾が絹の服で着飾っていたため、人々は劉虞の本性を疑ったという。ただし、これは日本語版が伝える逸話で、原文の確認はできていない。

主な出典
『三国志』魏書 公孫瓚伝、『後漢書』劉虞伝、裴松之注に引く『呉書』、日本語版Wikipediaの記述

Wikipediaで見る ↗

SOUL ALIGNMENT

人物像の分類:秩序・善

朝廷への忠を守り、皇帝擁立を断った行動から、規律は高めに置いています。

異民族を力で抑えず、擁立を断って献帝への忠を守った行動から、動機は他者寄りの側に置いています。

このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。

ABOUT THE CHRONICLE

強さではなく、生き方を。

48問・8つの性格軸・108人の人物データを使用しています。回答の平均値と人物プロフィールの距離で順位を決め、知名度で優先しません。一致度は8軸の回答と人物データの近さを百分率で表したもので、科学的な確率ではありません。

アラインメントについて

史料に基づく人物像の解釈には幅があり、この分類は暫定的なものです。史料の記述と本サイトによる解釈を区別し、人物ごとの説明では分類の理由を紹介しています。人物ごとの出典の裏付けには差があります。Wikipediaのリンクがあることだけで、動機の解釈が確定するものではありません。

人物側は、個人・組織・他者のどれを行動の主目的と捉えるかを個別に設定しています。分類ごとの人数は、人物像の違いによって異なります。史実上の内心や善悪の判定ではありません。プレイヤーの回答は人数比に合わせて補正せず、そのまま計算します。プレイヤーのアラインメントは初期状態では非表示です。説明を読んで表示を選んだ場合だけ、画面・保存画像・コピーテキスト・Xの投稿文に含まれます。「規律」だけを秩序/中立/混沌、「動機」だけを善/中立/悪に対応させ、独立に判定します。3.25以上を秩序・善、2.75以下を混沌・悪とします。人物とユーザー診断には同じ判定範囲を適用します。中立は2.75より大きく3.25より小さい値で、境界の2.75・3.25は含みません。境界付近の人物は2.75・3.25で表し、混在する動機のうち本作で少し重視する側を示します。分類名の追加による加点はありません。

善=自分の損得と無関係に他者のために動くこと、悪=自分個人の利益のために動くこと。組織や家が主目的の場合、または主な動機を一方に決められない場合は中立です。複数の動機があっても、他者支援・個人利益のどちらが主目的か明確なら4・2で表します。ルールを守って個人の利益を求める「秩序・悪」、ルールを破って他者を助ける「混沌・善」の両方が成立します。実際の道徳性を測るものではなく、史実上の人物の善悪も断定しません。人物紹介は、人物タイプと8つの性格軸から読み解く、本サイト独自の人物像です。

収録は108名です。魏28名・蜀28名・呉28名・群雄ほか20名・晋4名で、勢力は魏・蜀・呉・群雄ほか・晋の5分類です。診断を終えた回答は、このタブのセッション内に保持します。サーバーへ送信しません。再読み込み後も「自分の診断結果へ」から戻れます。ブラウザが保存を制限する場合は再読み込みで失われます。再診断を選ぶと保持した結果を削除します。

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「善・中立・悪」は行動の動機を表すゲーム用の分類で、実際の道徳性を測るものではありません。

アラインメントは8軸のうち「規律」と「動機」の2軸だけで決まります。一致度は8軸全体で計算するため、一致度の高い人物と分類が異なる場合があります。

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