CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
劉繇
名門の誇りを抱き、江東で敗れた揚州刺史
劉繇は、字を正礼といい、青州東萊郡牟平県の人で、漢の宗室です。19歳のとき、叔父が捕らえられたのを救って評判となり、孝廉に推挙されました。戦乱を避けて江南へ移り、揚州刺史に任じられて曲阿を拠点とし、袁術と対立して呉景・孫賁を追い払います。しかし195年、袁術の後援を受けた孫策が攻めてくると敗れ、曲阿を失いました。太史慈が仕えにきたとき、許劭の評判を気にして重く用いず、使いこなせなかったと伝わります。豫章へ逃れ、197年に病で亡くなりました。享年42。子の劉基は、のち孫権に仕えています。経歴は『三国志』呉書 劉繇伝・太史慈伝をもとにしています。
漢の宗室。揚州刺史として曲阿に入ったが、孫策に敗れて豫章に逃れ、197年に亡くなった。
THE WAY OF LIFE
劉繇の生き方
家柄と体面を重んじ、慎重に構える。劉繇は、品のある誠実さと、名を気にする繊細さを併せ持つ人物像です。
良い人材が目の前にいても、周りの評判を先に考えてしまう。信条と規律の高さと、決断の低さに、その生真面目さと不器用さを重ねています。
持ち味と、その裏側
宗室としての品位と、朝廷の筋を守る誠実さ。一方で、周囲の評判を気にして人材を使いこなせず、決断も遅れがちです。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜建安2年(197年)
青州東萊郡牟平県の人。字は正礼。漢の宗室で、劉寵の甥。
- 漢の宗室の出身。19歳のとき、叔父が捕らえられたのを救って評判となり、孝廉に推挙されて郎中となった。のち下邑県令・済南郡尉などを歴任した。
- 戦乱を避けて江南へ移り、揚州刺史に任じられて、曲阿を拠点とした。袁術と対立し、呉景・孫賁を追い払った。朝廷から揚州牧・振武将軍に任じられた。
- 195年、袁術の後援を受けた孫策が攻めてくると、敗れて曲阿を失った。
- 太史慈が仕えにきたが、許劭の評判を気にして重く用いず、使いこなせなかったと伝わる。
- 豫章へ逃れ、諸葛玄と朱皓の争いでは朱皓を支持した。笮融による混乱ののち、197年に病で亡くなった。享年42。子の劉基は、のち孫権に仕えた。
- 『三国志演義』では、太史慈を使いこなせず、孫策に敗れる凡庸な群雄として描かれる。
主な出典
『三国志』呉書 劉繇伝・太史慈伝、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
朝廷から任じられた刺史としての筋を重んじる姿から、規律は秩序寄りとしています。
民と州を守ろうとする務めと、名門としての体面の両方が見えるため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。