CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
劉琰
劉備の同姓の宴客。車騎将軍まで昇り、妻への疑いで処刑された蜀の重臣
劉琰は、字を威碩といい、豫州魯国の人です。劉備と同じ劉姓で、風采がよく談論が巧みだったため、劉備に気に入られて常に客人として側にいました。劉禅の代には車騎将軍にまで昇りますが、政務には関わらず、豪奢な暮らしと酒で知られます。建興12年(234年)、妻の胡氏が太后の宮中に一か月とどめられると、劉禅との不義を疑って胡氏を殴らせ、その罪で処刑されました。経歴は『三国志』蜀書 劉琰伝をもとにしています。
字は威碩。豫州魯国の人。劉備が豫州にいたころ、劉備と同姓であること、風采がよいこと、談論が巧みなことから従事に召され、厚く遇されて、常に客人として従った。建安19年(214年)に劉備が益州を平定すると、固陵太守となった。劉禅の代には都郷侯に封じられ、序列は李厳に次ぎ、衛尉・中軍師・後将軍を経て車騎将軍に進んだ。ただし国政には関わらず、兵千余を率いて諸葛亮に随い、意見を述べるだけだった。車や衣服、飲食は贅沢で、侍婢は数十人、みな音楽をこなし、『魯霊光殿賦』まで暗誦させた。建興10年(232年)、魏延と言い争って諸葛亮に責められ、成都へ帰されて失意の日々を送った。建興12年(234年)正月、妻の胡氏が太后に新年を賀しに参内し、太后に一か月とどめられると、劉琰は劉禅との不義を疑い、配下の役卒を呼んで胡氏を殴らせ、履で顔を打たせて離縁した。胡氏が訴え出て劉琰は投獄され、「兵卒は妻を打つ者ではなく、顔は履を受ける所ではない」と議せられて、市で処刑された。
THE WAY OF LIFE
劉琰の生き方
劉備と同じ劉姓で、見栄えがして話がうまかった。それが厚遇のきっかけだったが、車騎将軍の位に上っても、国政に加わった記事はほとんどない。
酒に荒れ、人と争い、最後は妻への疑いで自分を壊した。陳寿は、劉琰を含む旧臣たちの災いは、すべて自分で招いたものだと評した。
持ち味と、その裏側
人当たりのよさと談論の巧みさで、劉備にも後主にも重んじられ、李厳に次ぐ席にまで昇った。弾劾の上奏では李厳を罷免する連名の筆頭にもなっている。一方で、酒と贅沢、人との争いが重なり、魏延との件では自ら「酒荒の病」を認める書簡を諸葛亮に送った。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜234年
豫州魯国の人。字は威碩。劉備と同姓。
- 豫州魯国の人。劉備が豫州にいたころ、同姓であること、風采がよいこと、談論が巧みなことから従事に召され、厚遇されて、常に客人として従った。
- 建安19年(214年)、劉備が益州を平定すると、固陵太守となった。
- 劉禅の代に都郷侯に封じられ、序列は李厳に次いだ。衛尉・中軍師・後将軍を経て、車騎将軍に進んだ。ただし国政には関わらず、兵千余を率いて諸葛亮に随い、意見を述べるだけだった。
- 車や衣服、飲食は贅沢で、侍婢は数十人、みな音楽ができ、『魯霊光殿賦』まで暗誦させた。
- 建興9年(231年)、李厳が兵糧輸送の失敗をごまかそうとした件で、諸葛亮らとともに連名で上奏し、李厳の罷免を求めた。劉琰は筆頭に名がある。
- 建興10年(232年)、前軍師の魏延と不和になって言い争い、言葉が荒唐だったため、諸葛亮に責められた。劉琰は書簡で「酒荒の病があり、人々の議論が絶えない」と詫びた。諸葛亮は劉琰を成都へ帰し、官位はそのままだった。劉琰は失意のまま、ふるまいが乱れた。
- 建興12年(234年)正月、妻の胡氏が太后に新年を賀しに参内した。太后は胡氏を一か月宮中にとどめてから帰らせた。胡氏は美人だった。劉琰は劉禅との不義を疑い、配下の役卒を呼んで胡氏を打たせ、履で顔を打たせてから離縁した。
- 胡氏が事情を訴え出ると、劉琰は罪に問われて投獄された。法官は「兵卒は妻を打つ者ではなく、顔は履を受ける所ではない」と議し、劉琰は市で処刑された。以後、大臣の妻や母が参内して祝賀する習わしは絶えた。
- 『三国志演義』では登場する場面が改められ、妻の件は黄皓が政に関わる時期に移されている。
主な出典
『三国志』蜀書「劉彭廖李劉魏楊伝」(劉琰伝)。経歴は Wikipedia の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・悪
贅沢や酒に流れ、感情で人を傷つけた記事が目立つことから、規律は混沌寄りに置いています。
高位にありながら国政への関心が薄く、贅沢と酒に流れた記事が目立つことから、動機は自己寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。