CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
劉曄
本心を見せず、先を読み続けた魏の謀臣
劉曄は、字を子揚といい、揚州阜陵国成徳県の人で、漢の光武帝の子孫にあたります。13歳のとき、亡き母の遺言に従って、父のそばにいた悪質な側近を自ら討ったと伝わります。揚州の有力者・鄭宝を宴席で討ってその軍勢を引き継ぎ、曹操に仕えました。曹丕の時代には、孟達が降伏してきたとき「忠義が薄い」と警告し、のちに孟達は魏に背いています。曹叡の時代にも謀臣として重んじられましたが、国家の機密は漏らしてはならないという姿勢から、のち曹叡に疎まれ、『傅子』には心を病んで亡くなったとあります。経歴は『三国志』魏書 劉曄伝と『傅子』をもとにしています。
漢の宗室の出身で、曹操・曹丕・曹叡の三代に仕えた謀臣。情勢の読みは鋭かったが、本心を明かさない姿勢から、晩年は曹叡に疎まれた。
THE WAY OF LIFE
劉曄の生き方
表情を変えず、先を読んで静かに布石を打つ。劉曄は、鋭い構想力と、本心を明かさない慎重さを併せ持つ人物像です。
語らないことで、身を守り、機密も守る。構想の高さと、信条・表現の低さに、その読めなさを重ねています。
持ち味と、その裏側
情勢の先を読む構想力と、機密を守る慎重さ。一方で、本心を見せないため、周囲から信頼されにくく、主君との距離も開きやすくなります。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年不詳(曹叡の時代に没した)
揚州阜陵国成徳県の人。字は子揚。漢の光武帝の子孫にあたる。
- 7歳で母を亡くし、母の遺言に従って、父のそばにいた悪質な側近を、13歳で自ら討ったと伝わる。父は咎めなかった。
- 揚州の有力者・鄭宝が、住民を長江の南へ移そうとして、劉曄を担ぎ上げようとした。劉曄は、親友の魯粛から警告を受けていたため、鄭宝を宴席で討ち、その軍勢を引き継いだ。
- 曹操に仕え、寿春の陳策の討伐に従った。のち、司空倉曹掾となった。張魯の討伐では、食糧が尽きて撤退を勧める声に対し、戦いを続ければ勝機があると進言し、曹操の勝利を助けた。その後、司馬懿とともに益州への攻撃を提案したが、採用されなかった。
- 曹丕の時代には、侍中となった。孟達が降伏してきたとき、「忠義が薄い」と見て警告したが聞き入れられず、のちに孟達は魏に背いた。関羽の死後は、「劉備は必ず復讐に動く」と述べ、その通りになった。呉が魏に臣従した際も、「信用できない。今のうちに討つべきだ」と進言したが、呉はのちに離反した。
- 曹叡の時代にも謀臣として重んじられ、即位直後は、夜まで政治を語り合うこともあった。蜀への侵攻計画では、内々には賛成しながら、表向きには反対を述べた。理由を問われると、国家の機密は漏らしてはならない、と一人で諭した。曹叡については、始皇帝や漢の武帝の風があるが、わずかに及ばない、と評したと伝わる。
- のち、曹叡に疎まれるようになり、『傅子』には、心を病んで亡くなったとある。
- 『三国志演義』では、字を子陽とし、郭嘉の推薦で早くから曹操に仕える。官渡の戦いでは、霹靂車を考案して袁紹軍を破る。
主な出典
『三国志』魏書 劉曄伝・同注引『傅子』、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
法や制度より、自分の見立てと状況判断で動く面が強いため、規律は中間としています。
国のための献策と、自分の考えを隠す慎重さの両方が見えるため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。