CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
劉巴
誇り高く張飛を寄せつけず、蜀の財政を整えた尚書令
劉巴は、字を子初といい、荊州零陵郡烝陽県の人です。才能に優れ、劉表から招かれても応じず、208年の劉表の死後は劉備に従わず、曹操に仕えました。赤壁の敗北のあと、交州を経て益州へ逃れ、劉璋に身を寄せます。劉備が益州を治めると、以前の罪を詫びて咎められず、諸葛亮の推薦で登用されました。張飛が訪ねても、武人と話す気はないと応じなかったという逸話があります。軍費に困った劉備に、直百銭の鋳造と官営の市場を進言し、法正の死後は尚書令となりました。章武2年(222年)に病没し、質素な暮らしを守ったといいます。経歴は『三国志』蜀書 劉巴伝をもとにしています。
荊州零陵の人。劉表・曹操・劉璋と身を寄せ先を変え、のち劉備に仕えて尚書令となった。張飛の訪問を断った逸話と、直百銭による財政再建で知られる。
THE WAY OF LIFE
劉巴の生き方
群れず、人に媚びず、自分の流儀を貫く。劉巴は、揺るがない信条と、物事を設計する構想力を併せ持つ人物像です。
口数は少なく、派手な振る舞いもしない。構想と信条の高さと、挑戦と統率の低さに、その静かな誇りと、前に出ない慎み深さを重ねています。
持ち味と、その裏側
お金の流れや物価を読む構想力と、質素に徹する清廉さ。一方で、気位が高く、相手によっては冷たく見えて、張飛のような武人と衝突しやすく、人の輪を広げるのは苦手でした。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜章武2年(222年)
荊州零陵郡烝陽県の人。字は子初。父は江夏太守の劉祥。
- 荊州零陵郡の人。才能に優れ、荊州牧の劉表から招かれたが、応じなかった。『零陵先賢伝』は、劉表に疎まれて殺されそうになったことも伝える。
- 建安13年(208年)、劉表の死後に曹操が荊州へ進むと、劉巴は多くの人士のように劉備に従わず、曹操に仕えた。長沙など南の三郡の平定を命じられたが、赤壁の敗北で、劉備の勢力に対応できず、交州へ逃れた。
- 交州では、姓を張に改めたが、太守の士燮と折り合いが悪く、益州へ移って劉璋に身を寄せた。劉璋が劉備を招こうとしたとき、黄権とともに強く反対し、病と称して閉じこもった。
- 劉備が益州を治めると、以前の罪を詫びたが、咎められなかった。諸葛亮の推薦で、左将軍西曹掾となった。
- 張飛が劉巴を訪ねたとき、劉巴は、武人と話す気はないと応じなかった。諸葛亮が取りなし、孫権は、この態度を、人物を疑われないものとして弁護したと伝わる。
- 成都入城後、劉備の軍費に困ると、劉巴は、百銭の価値を持つ貨幣(直百銭)を鋳造し、官営の市場を開くよう進言した。『零陵先賢伝』は、数ヶ月で府庫が満ちたと伝えるが、実際の価値は五銖銭の二、三枚ほどで、物価の上昇を招いたともいう。
- 建安24年(219年)、劉備が漢中王になると尚書となり、法正の死後は尚書令となった。法正らとともに、『蜀科』の制定にも関わった。
- 劉備の皇帝即位の際、天地への報告文や任命書の文を作った。一方で、時期尚早だと、雍茂とともに諫めたと『零陵先賢伝』は伝える。
- 章武2年(222年)に病没した。質素な暮らしを守り、嫉みを避けるため、贅沢をしなかったという。
主な出典
『三国志』蜀書 劉巴伝、同注引『零陵先賢伝』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
蜀科の制定などの決まりに関わりつつ、特定の勢力や立場に縛られなかった姿から、規律は中間に置いています。
自分の誇りを守る面と、蜀の財政を整える務めの両面が見えるため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。