CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
劉封
劉備の養子として育ち、上庸で孤立した若き将
劉封は、もとは寇氏の子で、長沙の劉氏の甥にあたり、劉備の養子になりました。まだ劉備に跡継ぎがいなかったため迎えられたとされ、建安17年(212年)頃の益州攻めに加わり、武芸も気力も人に優れて戦功を立てます。建安24年(219年)には、孟達とともに上庸を取りました。同じ年、樊城の関羽が援軍を求めましたが、応じなかったと伝わり、関羽は敗れて討たれます。孟達とも折り合いが悪く、孟達は魏へ出奔しました。成都へ逃げ帰った劉封は、諸葛亮の進言もあって死を賜ります。「孟達の言葉に従っておけば」と嘆き、劉備はこれを聞いて涙を流したと伝わります。経歴は『三国志』蜀書 劉封伝をもとにしています。
劉備の養子。入蜀で武功を立て、孟達とともに上庸を取った。関羽の救援要請を断り、孟達の離反を招いたのち、成都で死を賜った。
THE WAY OF LIFE
劉封の生き方
武芸も気力も人に勝り、先陣を切る。劉封は、強い決断力と、人目を引く存在感を併せ持つ人物像です。
若さと才気のぶん、周りへの気遣いが追いつかなかった。決断・挑戦・表現の高さと、構想と信条の低さに、その勢いと、孤立しやすい危うさを重ねています。
持ち味と、その裏側
武勇に優れ、前に出て戦う勇敢さ。一方で、孟達との対立や、関羽の救援を断った判断など、先を見て人心をまとめる力が足りず、嫌疑を受ける立場に追い詰められても、手を打てませんでした。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜建安25年(220年)ごろ
もとは寇氏の子で、長沙の劉氏の甥にあたる。劉備の養子。
- もとは寇氏の子で、長沙の劉氏の甥だった。荊州にいた劉備に、まだ跡継ぎがいなかったため、養子に迎えられた(劉禅の誕生前)。
- 建安17年(212年)頃、劉備の益州攻めに加わった。二十歳あまりで、武芸も気力も人に優れ、諸葛亮・張飛らとともに各地で戦功を立て、益州の平定後、副軍中郎将となった。
- 建安24年(219年)、孟達が房陵を攻めたあと、劉備は劉封を漢中から派遣して、上庸への進出を支援させた。劉封と孟達は、申耽を降し、劉封は副軍将軍に進んだ。
- 同じ年、樊城の関羽が援軍を求めたが、劉封と孟達は、占領したばかりで動揺があるとして、応じなかったと伝わる。関羽は敗れて討たれ、劉備は二人を深く恨んだ。
- 劉封は孟達とも折り合いが悪く、孟達の軍楽隊を取り上げた。孟達は魏へ出奔し、夏侯尚・徐晃らとともに、劉封を攻めた。
- 申耽の弟の申儀らが背き、劉封は成都へ逃げ帰った。劉備は、孟達を魏に走らせたことと、関羽を救わなかったことを責めた。諸葛亮は、劉封の剛勇は、次代の劉禅では制御しにくいと進言し、劉封は死を賜った。
- 自決の際、劉封は「孟達の言葉に従っておけば」と嘆き、劉備はこれを聞いて涙を流したと伝わる。陳寿は、嫌疑を受ける立場にありながら、手を打たなかったことを批判している。
- 子の劉林は、咸熙元年(264年)、蜀の滅亡後に河東郡へ移った。『三国志演義』では、劉禅の誕生後に養子となる設定に変えられている。
主な出典
『三国志』蜀書 劉封伝・諸葛亮伝・関羽伝、魏書 明帝紀注、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・中立
上庸で独自の判断を重ね、軍楽隊を取り上げて孟達との摩擦を招くなど、決まりより自分の判断で動いた姿から、規律は裁量寄りとしています。
戦功を求める若さと、立場を守る警戒心の両方が見えるため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。