CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
劉宏
売官で金を集め、西園に親軍を築いた後漢の皇帝(霊帝)
劉宏は、後漢の第12代皇帝(霊帝)で、章帝の子孫、河間王家の出です。建寧元年(168年)に桓帝が崩じると、男子がいなかったため迎えられ、数えで12歳で即位しました。宦官が政を握るなか、党人を禁錮し、光和元年(178年)には官職を売る売官を始めます。黄巾の乱の年に党人を赦し、中平5年(188年)には州牧を復活させて、皇帝直属の西園八校尉を置きました。張譲を「わが父」と呼んだという話が伝わります。中平6年(189年)、劉弁と劉協のどちらを太子にするか定めないまま崩じ、のち何進と宦官の争いを招きました。後世は暗愚な皇帝の代名詞とされましたが、近年は再評価を試みる研究もあります。経歴は『後漢書』霊帝紀と『資治通鑑』をもとにしています。
後漢の第12代皇帝(霊帝)。桓帝に子がなく、12歳で迎えられて即位した。宦官が政を握る中、党人を禁錮し、官職を売り、黄巾の乱の年に党人を赦した。晩年は西園八校尉を置き、州牧を復活させたが、後継を定めないまま189年に崩じた。
THE WAY OF LIFE
劉宏の生き方
宦官を『父』『母』と呼んだと伝わる。実務を任せ切る人物像で、統率と決断は低めに置いています。
鴻都門学や熹平石経、西園八校尉のように、前例のない試みも打ち出した。構想と挑戦は中間以上に置いています。
持ち味と、その裏側
書画や文芸を好み、鴻都門学を設けて、熹平石経の刊刻も進めた。晩年には州牧の復活と西園八校尉で、軍の立て直しを図った。一方で、宦官への依存と売官で朝廷の信頼を損ね、後継も定めないまま世を去った人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
永寿2年(156年)頃〜中平6年(189年)
章帝の玄孫。解瀆亭侯劉萇の子。母は董太后。皇后は何氏。子に劉弁・劉協。
- 章帝の子孫で、河間王家の出。解瀆亭侯劉萇の子として生まれた。生年は156年とされるが、157年とする説もある。
- 建寧元年(168年)1月25日に桓帝が崩じた。男子がなく、竇皇后(のち太后)と大将軍の竇武、太尉の陳蕃らに迎えられて、2月17日に即位した。数えで12歳だった。
- 同年、竇武と陳蕃が宦官の排除を図ったが露見した。宦官側が先に動き、陳蕃は殺され、竇武は自殺に追い込まれた。曹節・王甫らが権力を握った。
- 建寧2年(169年)、宦官は党人を捕らえて殺した。第二次党錮の禁である。熹平元年(172年)に侯覧が罪を得て自害し、光和2年(179年)には、王甫が陽球に弾劾されて死罪となった。曹節は反撃して陽球らを葬り、181年まで存命だった。
- 熹平4年(175年)、蔡邕らが尽力した熹平石経が作られた。光和元年(178年)には売官が始まり、任官後に分割で納める方式もあった。崔烈・樊陵・曹嵩らが、官職を買った例として知られる。177年に設けた鴻都門学は、書画に優れた者を集めたもので、蔡邕が批判したが聞き入れられなかった。
- 光和7年(184年)、張角の黄巾の乱が起こった。霊帝は宦官の呂強の進言で党人を赦した。何進・皇甫嵩・朱儁・盧植・董卓らが討伐に当たり、同年に張角が病没して、乱は下火になった。のちに張燕・張純・韓遂らが各地で挙兵した。
- 中平5年(188年)、劉焉の提案で州牧を復活させた。同年、自ら『無上将軍』を称し、皇帝直属の西園八校尉を置いた。信任する宦官の蹇碩に、何進・袁紹・曹操らを統べさせた。
- 張譲を『わが父』、趙忠を『わが母』と呼んだという話が、『資治通鑑』に伝わる。十常侍と呼ばれる宦官たちは、霊帝のもとで政を専断した。
- 中平6年(189年)4月、霊帝が崩じた。数えで34歳とされる(『後漢書』)。何皇后の子の劉弁と、王美人の子の劉協のどちらを太子にするか定めないままで、のち何進と宦官の争いを招いた。
- 後世は桓帝と並べて、暗愚な皇帝の代名詞とした。蓋勲は、奸臣に惑わされただけだと評した。石井仁らは、売官を軍の財源や帝室財政の回復策とみて、再評価を試みている。曹操は、西園の軍制を引き継いだとされる。
主な出典
『後漢書』霊帝紀、『資治通鑑』、日本語版・英語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・悪
売官や、後継を定めないままの崩御から、朝廷の決まりを保つ力は低めに置いています。
売官や宮中の造営で私財を集めた記録が多く、動機は自分寄りの側に置いています。ただし売官を軍の財源とみる研究もあり、評価は分かれます。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。