CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
公孫続
父の命で張燕と結び、易京の救援に戻った公孫瓚の子
公孫続は、公孫瓚の子で、遼西郡令支県の人です。建安3年(198年)、父の命で張燕のもとへ送られて盟約を結び、翌年、張燕とともに10万の兵を率いて、易京の救援に戻りました。袁紹に策を見抜かれて敗れ、父は自害し、公孫続も同じ年に屠各に殺されました。本人の言葉や人柄を伝える記録は少なく、ここでは記録の少なさを踏まえた暫定の値を置いています。人物像を記した史料が見つかれば、見直す余地があります。
幽州遼西郡令支県の人。公孫瓚の子。建安3年(198年)に張燕のもとへ送られて盟約を結び、翌年、張燕とともに10万の兵で易京の救援に戻ったが、袁紹に策を見抜かれて敗れた。同年、屠各に殺された。
THE WAY OF LIFE
公孫続の生き方
父の命で張燕と盟約を結び、救援に戻った。父の意志を受けて動いた人物像ですが、本人の言葉は伝わりません。
値は暫定のものです。
持ち味と、その裏側
記録が少ないため、持ち味を特定できません。確かに言えるのは、父の命で張燕と結び、大軍を率いて易京へ戻った役割だけです。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年未詳〜建安4年(199年)
幽州遼西郡令支県の人。遼西公孫氏。父は公孫瓚。公孫越・公孫範は、父の従弟にあたる。
- 生年は伝わらない。
- 建安3年(198年)、父が袁紹と戦っていたとき、父の命で張燕のもとへ送られ、盟約を結んだ。
- 建安4年(199年)、公孫続は張燕とともに10万の兵を率いて、易京の城外へ救援に戻った。公孫瓚は、城外の張燕・公孫続と合流して、袁紹の背後を突く計画を立てた。
- 公孫瓚は、城内から公孫続へ密使を送り、内と外から呼応する作戦を立てた。しかし密使が袁紹軍の斥候に捕らえられ、計画が漏れた。公孫瓚が出撃したが、袁紹の伏兵に惨敗した。『献帝春秋』は、公孫瓚が死の直前に薊の城が崩れる夢を見て、公孫続に手紙を送ったと伝える。その手紙を持った密使が捕らえられたという。
- 同じ年、易京は陥落し、公孫瓚は自害した。公孫続は、屠各(南匈奴の屠各種の一支系)に殺された。月日は伝わらない。
主な出典
『三国志』魏書 公孫瓚伝、裴松之注に引く『献帝春秋』、日本語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
規律を示す記録が乏しいため、中間に置いています。
記録が乏しく、動機を一方に定められないため、中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。