CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
公孫淵
大国のあいだで自立を試み、遼東に散った人
公孫淵は、遼東を治めた公孫氏の三代目です。叔父から位を奪い、呉から燕王に封じられかけながら使者を殺して魏に首を送り、のちには自ら燕王を称して、司馬懿に討たれました。ここでの人物像は、魏と呉のあいだで自立を保とうとした行動からの読みで、本人の内心が史書に書かれているわけではありません。
遼東の公孫度の孫、公孫康の子。叔父から位を奪い、呉と魏の双方と結んだのち、燕王を称して司馬懿に討たれた。
THE WAY OF LIFE
公孫淵の生き方
大国のあいだで、遼東の自立を保とうとした。魏と呉の双方と結び、状況に応じて相手を替えた姿を、決断と挑戦の高さに重ねた人物像です。
位の継承、使者の殺害、反対した臣の処刑と、場面ごとに強い手を選んだ。規律と信条の低さは、約束より形勢を優先した行動に基づく読みです。
持ち味と、その裏側
遼東の統治基盤を握り、魏と呉の双方と渡り合った実行力。一方で、約束を翻し続けたため、誰からも信を置かれにくい人物でもあります。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜景初2年(238年)
遼東の公孫氏。公孫度の孫、公孫康の子。
- 遼東の公孫度の孫で、公孫康の子。父の康が死んだとき、子の晃・淵はまだ幼く、人々は叔父の公孫恭を太守に立てた。
- 太和2年(228年)、成長した淵は、恭を脅して位を奪った(『三国志』公孫度伝)。『晋書』は、恭を幽閉したと記す。
- 嘉禾2年(233年)、孫権は張弥・許晏・賀達らを遣わし、淵に燕王の位と九錫を授けようとした。淵は使者を殺し、その首を魏へ送った(『三国志』呉主伝)。
- 裴松之注に引く『魏略』は、淵が魏へ出した上表を収める。そこでは、使者の殺害や、九錫などを魏へ返したことが説明されている。ただしこれは淵が魏に自分の行いを正当化するための文で、本人の弁明をそのまま事実とは扱えない。
- 景初元年(237年)、魏は毌丘倹を遣わしたが、淵は迎え撃って魏軍を退けた。淵は独立して燕王を称し、官僚を置いた(『三国志』公孫度伝本文)。「紹漢」という年号を用いたことは、注に引く習鑿歯『漢晋春秋』に見える。
- 『晋書』は、淵が反対した賈範・綸直らを殺したと記す。
- 景初2年(238年)、司馬懿が遼東に攻め入り、淵は襄平で包囲された。長雨と食糧不足のなか、8月、淵は子の脩と数百騎で脱出を試みたが、追われて父子ともに斬られた(『三国志』公孫度伝本文)。
- 『晋書』宣帝紀は、淵が降伏を願って遣わした王建・柳甫を司馬懿が斬り、襄平が落ちたのち、十五歳以上の男子七千余人を殺して京観を築き、将軍の畢盛ら二千余人も殺したと記す。これは司馬懿の行いとして書かれたもので、淵自身の行為ではない。
- 『三国志』魏書 東夷伝の韓条は、建安年間に公孫康が屯有県以南の荒れ地を分けて帯方郡を置き、「是の後、倭と韓は遂に帯方に属した」と記す(陳寿の本文)。ここでいう「属した」は中国側の史書の表現で、倭の女王の国が公孫氏に直接治められていたとまでは言えない。
- 『三国志』魏書 東夷伝の序文は、淵が父祖三代にわたって遼東を支配し、東夷と魏の中央との交通が妨げられていたこと、魏は淵を討つとともに、海路から楽浪・帯方を接収したことを記す。
- 倭人条は、「景初二年六月」に、倭の女王が大夫の難升米らを帯方郡へ遣わしたと記す。帯方太守は劉夏とある。一方、『日本書紀』『梁書』『北史』などは景初三年とし、『梁書』は淵が討たれたのちの朝貢とする。ただし、淵の滅亡が遣使を直接引き起こしたとは、倭人条に書かれていない。卑弥呼と淵の血縁や、直接の交流を示す記録も、確認されていない。
- 日本の『新撰姓氏録』(815年成立)は、左京諸蕃上・右京諸蕃上・河内国諸蕃の三か所に、常世連を「燕国王公孫淵の後」とする条を載せる。分類は漢の渡来系で、百済を経由したとは書かれていない。転写によって「出自燕國王公孫淵也」「燕國王公孫淵之後也」と字句に差がある。
- 『続日本紀』には、赤染造広足らに常世連の姓を賜ったという記事がある(天平19年〈747年〉、天平勝宝2年〈750年〉、宝亀8年〈777年〉)。747年と750年は同じ人名が見え、『大日本史』は重複を疑っている。
- 同時代の『紫式部日記』は、丹波守(大江匡衡)の妻を「匡衡衛門」と呼ぶと記し、歌人の赤染衛門が匡衡の妻だったことが分かる。のちの系図は、この夫婦の子孫から大江広元、毛利氏へつなぐ。ただし広元の父については、『尊卑分脈』は大江維光、『中原系図』は中原広季、『江氏家譜』は藤原光能とする説を伝え、一致していない。
- 以上は、氏族の自称と、のちの系図の伝承である。公孫淵から常世連、大江氏、毛利氏までの血縁や渡来の経路が、史料で証明されているわけではない。なお、大阪府八尾市の常世岐姫神社を公孫淵を祀る社とする説明もあるが、確認できた案内の祭神は常世岐姫命で、公孫淵とは確認できなかった。
主な出典
『三国志』魏書 公孫度伝(裴松之注に引く『魏略』『漢晋春秋』を含む)、呉書 呉主伝、魏書 東夷伝(韓条・倭人条・序文)、『晋書』宣帝紀。日本の伝承は『新撰姓氏録』『続日本紀』『紫式部日記』による
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・悪
朝廷の官位より、自分の判断で動いた行動から、規律は裁量寄りとしています。
位を奪い、使者を殺し、燕王を称した行動は、遼東での自立を守る方向に揃っています。ただし、本人の内心を記した史書はなく、動機は行動から読んだものです。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。