CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
公孫康
曹操を恐れて袁尚・袁煕の首を送り、帯方郡を置いた遼東の主
公孫康は、公孫度の子で、遼東郡襄平県の人です。父の後を継いで遼東太守となり、楽浪郡の南半分を割いて帯方郡を置いたと伝わります。建安12年(207年)、曹操に敗れて逃れてきた袁尚・袁煕らを殺してその首を曹操に送り、襄平侯・左将軍に任じられました。本人の言葉や人柄を伝える記録は少なく、ここでは記録の少なさを踏まえた暫定の値を置いています。人物像を記した史料が見つかれば、見直す余地があります。
幽州遼東郡襄平県の人。公孫度の子。父の後を継いで遼東太守となり、楽浪郡の南半分を割いて帯方郡を置いた。建安12年(207年)、逃れてきた袁尚・袁煕らを殺してその首を曹操に送り、襄平侯・左将軍となった。弟の公孫恭が後を継ぎ、子の公孫淵が後に遼東を取り戻した。
THE WAY OF LIFE
公孫康の生き方
曹操の攻撃を恐れて、逃れてきた客を殺し、首を送った。判断の速さは見えますが、本人の言葉は伝わりません。
値は暫定のものです。
持ち味と、その裏側
記録が少ないため、持ち味を特定できません。確かに言えるのは、遼東を受け継ぎ、帯方郡を置き、袁氏の兄弟を殺して曹操との衝突を避けた、という行動だけです。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年未詳(209〜220年ごろに没したとされる)
幽州遼東郡襄平県の人。公孫氏。父は公孫度、弟は公孫恭。子に公孫晃・公孫淵。
- 幽州遼東郡襄平県の人。公孫度の長子で、『傅子』(『三国志』管寧伝の裴松之注)は庶子とする。生年は伝わらない。英語版Wikipediaの本文は172年生まれだが、注では、204年に父の職を継いだことから190年かそれ以前の生まれと述べ、食い違う。
- 父の公孫度は玄菟郡の小吏から身を起こし、遼東郡の人々に軽んじられていた。属国の公孫昭が襄平県令を代行していたとき、公孫度の子の康を伍長に取り立てた。のち公孫度は遼東太守となり、東は高句麗を討ち、西は烏桓を撃って、海外にまで威を示した。
- 建安9年(204年)、公孫度が没し、公孫康が遼東太守を継いだ。曹操が公孫度に授けていた永寧郷侯の印綬は、弟の公孫恭に与えた。
- 『三国志』武帝紀は、公孫康を「遠いことを頼みに服さなかった」と記す。百度百科は、建安10年(205年)、袁譚を破った曹操が張遼を海辺に送り、張遼が公孫度の置いた営州刺史の柳毅を破ったため、公孫康は父が長く治めた東莱の諸県を失ったとする。
- 建安12年(207年)、曹操は三郡の烏桓を討ち、柳城を落とした。袁尚・袁煕の兄弟は、遼東単于の速僕丸らとともに、数千騎で遼東へ逃れた。ある者が追撃を勧めたが、曹操は「私は今、公孫康に袁尚・袁煕の首を斬って送らせる。兵を煩わせるまでもない」と言い、9月に柳城から兵を引いた。『三国志』武帝紀は、そののち曹操が、先に追撃を諫めた者たちを調べて厚く賞し、自らの前の行軍は危うい賭けで天の助けだった、と語ったと記す。
- 百度百科は、次のように伝える。袁尚は、遼東に着いたら公孫康が必ず会うだろうから、自分一人で殺して遼東を奪おう、と袁煕に話した。公孫康も袁尚を捕らえて手柄にするつもりで、先に厩の中に精鋭を伏せ、二人を招いた。袁煕は疑って入りたがらなかったが、袁尚が無理に連れて入った。二人が座る前に、公孫康は伏兵に二人を捕らえさせ、凍った地面に座らせた。袁尚が「席をもらえないか」と言うと、公孫康は「お前の首はもうすぐ万里を行く。席が何になる」と答えた(袁煕の言葉とする説もある)。この場面は『資治通鑑』にも伏兵のくだりがあるが、席の言葉の出所は要確認。
- 公孫康は袁尚・袁煕・速僕丸らを斬り、首を曹操に送った。曹操は、公孫康が袁尚らをもともと恐れていたため、急に攻めれば力を合わせ、緩めれば自分たちで争う、情勢がそうさせたのだと将たちに説明した。公孫康は襄平侯・左将軍に任じられた。
- 高句麗は伯固の代から遼東をしばしば侵し、逃れてきた胡人500余家も受け入れていた。『三国志』東夷伝によれば、建安年中、公孫康が出兵して高句麗を破り、その国の邑落を焼いた。長男でありながら王位を継げなかった伯固の子・抜奇は国人を恨み、涓奴加とともに、下戸3万余口を率いて公孫康に降った。百度百科はこれを建安14年(209年)とし、英語版は204年と209年の2度の出兵とする。
- 当時、韓や濊が強く、郡県の力が及ばなかった。人々の多くが朝鮮半島へ流れ込んでいたため、公孫康は屯有県より南の荒れ地を分けて帯方郡を置き、公孫模・張敞らに流民を集めさせて、韓・濊を討った。
- 公孫康の没年は伝わらない。英語版の本文は210年没とするが、注では、公孫恭が曹丕の即位時(220年)にすでに遼東太守だったことから、209年から220年12月までの間とする。二人の子の晃と淵が幼かったため、遼東の官吏は弟の公孫恭を太守に立てた。
- 黄初2年(221年)、曹丕は公孫恭を車騎将軍・平郭侯に任じ、公孫康には大司馬を追贈した。のち公孫恭の位は公孫康の子の公孫淵に奪われた。公孫淵は、魏の明帝に出した上表の中で、公孫康が孫権の使者を斬ったと述べた。長男の公孫晃は、任子として洛陽にいたが、公孫淵の反乱後、明帝の命で毒を飲んで死んだ。
- 人物評として、百度百科は、郭昕・柳浦らの文に「康は父の跡を継ぎ、盛んに計略をめぐらせ、……曹操を助けて乱を平らげ、手柄が多かった」という趣旨の評があるとし、鍾惺(鍾伯敬)の「袁氏の兄弟にも企みがあったが、結局公孫氏の手で死んだ。公孫氏の計がさらに巧みだったからだ」という評を挙げる。
主な出典
『三国志』魏書 公孫度伝、日本語版・英語版Wikipedia、百度百科(『三国志』武帝紀・東夷伝、『資治通鑑』の引用を含む)の記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
規律を示す記録が乏しいため、中間に置いています。
記録が乏しく、動機を一方に定められないため、中間に置いています。
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