CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
公孫度
遼東で独立し、海を渡って東萊を攻めた遼東の支配者
公孫度は、字を升済といい、幽州遼東郡襄平県の人です。中平6年(189年)、董卓配下の徐栄の推薦で遼東太守となり、自分の出自を軽んじた地元の名族を先に罪に問い、百余家を滅ぼして支配を固めました。初平元年(190年)に中原の混乱を見て、王位を狙う考えを側近に語り、海を隔てた東萊郡に軍を送って諸県を攻略します。遼東侯・平州牧を名乗り、高句麗や烏桓を討って功績を挙げました。曹操から贈られた武威将軍・永寧郷侯の印綬は、不満でしまい込んだといいます。建安9年(204年)に没し、子の公孫康が後を継ぎ、孫の公孫淵の代まで遼東の公孫氏の支配が続きました。経歴は『三国志』魏書 公孫度伝をもとにしています。
遼東郡襄平県の人。字は升済。董卓配下の推薦で遼東太守となり、地元の名族を滅ぼして支配を固めた。遼東侯・平州牧を名乗り、高句麗や烏桓を討った。204年に没し、子の公孫康が後を継いだ。
THE WAY OF LIFE
公孫度の生き方
自分の出自を軽んじた名族を、先手を打って滅ぼした。決断と統率は高く、他者への配慮は低い人物像です。
曹操から授かった印綬を、不満で武器庫にしまい込んだ。漢の官位より、自分の支配を優先した人物像です。
持ち味と、その裏側
中原の混乱を見て、辺境の遼東を独立勢力にまとめた判断力。海を隔てた東萊へ軍を送った行動力。高句麗や烏桓を討って、地域の支配を固めた統率力。一方で、名族を力で滅ぼす手法は、規律や他者への配慮の面で低く置いています。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
150年〜建安9年(204年)
幽州遼東郡襄平県の人。字は升済。初名は豹。父は公孫延。子に公孫康・公孫恭。孫に公孫淵・公孫晃。
- 遼東郡襄平県の人で、字は升済、初名は豹。父の公孫延は、玄菟太守の公孫琙に仕えた。公孫琙は、早世した子が同じ『豹』の名だったため、目をかけて学問を援助した。
- 建寧2年(169年)、霊帝の有道の士の推挙に応じて、謝弼・陳敦とともに郎中に任じられたと『後漢書』謝弼伝が伝える。その後、尚書郎から冀州刺史に移ったが、噂を理由に罷免された。
- 中平6年(189年)、董卓配下の中郎将・徐栄の推薦で、遼東太守となった。『後漢書』袁紹伝は、中平元年(184年)とする。
- 遼東では、自分の出自を軽んじた地元の名族を、先に罪に問って、百余家を滅ぼした。
- 初平元年(190年)、中原の混乱を見て、側近の柳毅・陽儀に王位を狙う考えを語った。讖書の『孫登が天子になる』という語を、自分の字『升済』の『升』(登)に結びつけた、と記される。
- 海を隔てた青州東萊郡に軍を送って諸県を攻略し、営州刺史を置いた。遼東侯・平州牧を名乗り、父に建義侯を追贈して、漢の二祖(劉邦・光武帝)の霊廟を建てた。
- 高句麗と烏桓を討って、功績を挙げた。
- 曹操から、武威将軍・永寧郷侯を与えられた。しかし不満で、贈られた印綬は武器庫にしまい込んだ。
- 建安9年(204年)に没し、子の公孫康が後を継いだ。孫の公孫淵の代まで、遼東の公孫氏の支配が続いた。
- 『隋書』は、公孫度が娘を百済の始祖・仇台に嫁がせたと伝える。ただし、これは百済の起源説話で、公孫度本人の記録としては、確認できていない。
主な出典
『三国志』魏書 公孫度伝、日本語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・悪
朝廷の官位を受け流し、独自の称号を名乗ったため、規律は低めに置いています。
地元の名族を先に罪に問って滅ぼし、独立の意志を語った記録から、動機は自分寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。