CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
全琮
施しで名を上げ、呉の大都督にのぼった名門の将
全琮は、字を子璜といい、揚州呉郡銭唐県の人です。若い頃、父の命で米を売りに出たとき、困窮する士人を見かねて数千斛の米を人々に施し、中原からの難民にも援助して、遠方にまで名が知られました。孫権に仕えて山越の討伐に当たり、1千の兵から募兵を重ねて、1万の兵を集めたと伝わります。建安24年(219年)、関羽が樊城を攻めると、その背後を衝く策を上疏しました。赤烏4年(241年)には大都督として寿春に侵攻し、芍陂の堤を決壊させて兵糧庫を焼きます。二宮の変では孫覇を支持し、陸遜と不仲になりました。没年は史料によって異なります。経歴は『三国志』呉書 全琮伝をもとにしています。
呉郡銭唐の人。若い頃に、困窮する人々へ米を施して名を知られ、孫権に仕えた。山越の討伐や関羽との戦い、芍陂の戦いで功を立て、大都督にのぼった。のちの二宮の変では、孫覇の側に立った。
THE WAY OF LIFE
全琮の生き方
人を助け、人を集め、人を動かす。全琮は、統率の高さと、人望の厚さを併せ持つ人物像です。
大きな決断を急がず、周りを見て動く。統率の高さと、各軸の中間の並びに、その調整型の姿を重ねています。
持ち味と、その裏側
兵を集め、率いる力と、人の気持ちをつかむ寛さ。山越の討伐では、募兵を重ねて1万の兵を集めたと伝わる。一方で、二宮の変では、家の勢力を守る動きが、陸遜との不仲を招きました。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建安3年(198年)ごろ〜赤烏12年(249年)(没年に異説あり)
揚州呉郡銭唐県の人。字は子璜。父は桂陽太守の全柔。
- 揚州呉郡銭唐県の人。父の全柔は、孫策・孫権に仕えて、桂陽太守にまで進んだ。
- 若い頃、父の命で米を売りに出たが、困窮する士人を見かねて、数千斛の米を人々に施した。中原からの難民数百家にも、家財を傾けて援助したため、遠方にまで名が知られた。
- 孫権に仕え、奮威校尉となって山越の討伐に当たった。1千の兵を率いて出向き、募兵を重ねて、1万の兵を集めたと伝わる。
- 建安24年(219年)、関羽が樊城を攻めると、その背後を衝く策を上疏した。孫権が荊州を取ると、陽華亭侯に封じられた。
- 赤烏4年(241年)、大都督として寿春に侵攻し、芍陂の堤を決壊させ、兵糧庫を焼いた。千人余りを討ったが、戦後の恩賞は、張休や顧承に厚く、全氏には薄かった。
- 二宮の変では、孫覇を支持した。子の全寄を孫覇の側近に就けたことを、陸遜に咎められたが、聞き入れず、両者は不仲になった。
- 赤烏12年(249年)、病で亡くなったとする記述が主流。ただし没年は、赤烏10年〜12年と、史料によって異なる。
主な出典
『三国志』呉書 全琮伝、同注引『江表伝』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
軍の命令と、家の立場の両方を見て動いた姿から、規律は中間に置いています。
人々への施しや、中原の難民への援助から、動機は他者寄りに置いています。二宮の変で子の全寄とともに孫覇側に立ったことは、家の利害とも結びついていました。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。