CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
傅肜
夷陵で殿を務め「呉の犬め、漢の将軍に降る者がいるか」と叫んで死んだ将
傅肜は、蜀の将です。222年、劉備が陸遜に夷陵で大敗したとき、別督として殿軍を引き受け、兵が一人残らず死ぬまで戦いました。呉の将が降伏を勧めると「呉の犬め、漢の将軍に降る者がいるか」と罵って戦死しました。息子の傅僉は四十一年後、蜀が滅びる年に陽安関で同じように降らずに死に、晋の武帝は「父子ともに、天下の善は一つだ」と詔しました。経歴は『三国志』蜀書「楊戯伝」付載の記述をもとにしています。
義陽の人。222年、劉備が関羽の仇を討つため呉を攻めたとき、馮習を大督、張南を前部とし、傅肜は輔匡・趙融・廖化らとともに別督として従った。閏六月、陸遜の火攻めで蜀軍は猇亭で崩れ、劉備は馬鞍山に退いてさらに敗れ、夜に逃れた。傅肜は殿軍として踏みとどまり、兵が死に尽くすまで戦った。呉の将が降れと言うと「呉狗、何ぞ漢将軍の降る者有らんや」と罵り、戦死した。蜀は護駕の功で息子の傅僉を左中郎とし、傅僉はのち関中都督となって263年に陽安関で戦死した。陳寿は「論者はその父子の奕世の忠義を嘉した」と記す。
THE WAY OF LIFE
傅肜の生き方
山が燃え、四十余りの営がすべて破られ、張南も馮習も沙摩柯も死んだ夜。劉備は馬鞍山からさらに夜の闇へ逃れた。誰かが殿を務めなければ、追いつかれる。傅肜が残った。
兵が死に尽くした。一人になった傅肜に、呉の将が声をかけた。降れ、と。傅肜は答えた。「呉の犬め。漢の将軍に、降る者などいるか」。そして死んだ。史書に残る、この人の言葉はこれ一つです。
四十一年後、蜀が滅びる年に、息子の傅僉が陽安関で、同僚に裏切られたまま降らずに死んだ。晋の武帝は詔を出した。「傅僉は関城で我が軍を身をもって拒み、死を顧みなかった。父の傅肜も劉備のために戦死した。天下の善は一つだ、彼我で異なるものではない」。敵の皇帝が、父子二代を一つの言葉で称えた。
持ち味と、その裏側
主君を逃がすために自分を捨てる覚悟と、死に際の一言が後世まで残る激しさ。一方で、史書に伝はなく、生年も字も残らない。この一夜のために記憶されている人。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜222年
荊州義陽郡の人。息子は傅僉。
- 義陽の人。生年と字は伝わらない。
- 221年、劉備が孫権の関羽襲撃を怒って東征し、呉班・馮習が巫で呉の李異らを破り、秭帰まで進んだ。
- 222年2月、劉備は秭帰から諸将を率いて夷道の猇亭に陣し、馮習を大督、張南を前部とし、傅肜・輔匡・趙融・廖化らを別督とした。閏6月、陸遜は兵に茅を一束ずつ持たせて火を放ち、張南・馮習・沙摩柯を斬り、四十余営を破った。劉備は馬鞍山に登って兵を集めたが、陸遜に四面から攻められて崩れ、死者は万を数えた。劉備は夜に逃れ、鎧を焼いて道をふさぎ、かろうじて白帝城に入った。
- この退却で、傅肜は殿軍として追撃を防ぎ、兵が死に尽くすまで戦った。呉の将が降伏を勧めると、傅肜は「呉狗、何ぞ漢将軍の降る者有らんや(呉の犬め、漢の将軍に降る者がいるか)」と罵り、戦死した。
- 蜀は息子の傅僉を左中郎に拝し、傅僉はのち関中都督となった。263年、蜀が滅びる年に傅僉も陽安関で危機に臨んで命を授けた。陳寿は「論者はその父子の奕世の忠義を嘉した」と記す。晋の武帝司馬炎は詔で「傅僉は関城で身をもって官軍を拒み、死を顧みなかった。父の肜も劉備のために戦死した。天下の善は一つだ」と称えた。
- 『三国志演義』第84回では「傅彤」の名で登場し、江南第四営を守って淳于丹を破り、馬鞍山では劉備を護って突囲し、丁奉に降伏を勧められて「吾は漢将なり、安んぞ呉狗に降らんや」と罵り、百余合戦って血を吐いて死ぬ。李贄は「傅彤は丈夫だ」、毛宗崗は「傅彤は黄権に勝ること多し」と評した。成都の武侯祠では文臣廊に塑像があり、龐統・簡雍・呂凱に次いで四番目に置かれている。
主な出典
『三国志』蜀書「楊戯伝」(鄧張宗楊伝)、「先主伝」、呉書「陸遜伝」、『三国志演義』第84回。経歴は 百度百科「傅肜」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
殿軍の務めを命のかかった場面で果たしきり、「漢の将軍」としての立場を最後まで守ったことから、規律は秩序寄りに置いています。
自分一人なら逃げられたところを、主君を逃がすために殿を引き受け、兵が尽きても降りませんでした。自分の命より主君と漢の将としての名を取った人として、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。