CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
傅巽
人を見抜く目で名を残し、劉琮に降伏を説いた荊州の名士
傅巽は、字を公悌といい、涼州北地郡泥陽の人です。前漢の傅介子の子孫で、堂々とした風采と広い見識を持ち、人を見抜く目で知られました。荊州で劉表に仕え、建安13年(208年)、曹操の南下を前に、劉琮へ降伏を説きます。魏では散騎常侍・侍中・尚書を務め、曹丕に「わが腹心の臣」と呼ばれました。龐統を「半英雄」と評し、魏諷の謀叛を予言した話や、漢のために泣いた蘇則をそっとかばった話が伝わります。経歴は『三国志』魏書 劉表伝とその注に引く『傅子』などをもとにしています。
北地傅氏の出で、立派な風采と人を見抜く目で知られた。荊州で劉琮に降伏を説き、魏では侍中・尚書を務めた。曹丕に「腹心の臣」と呼ばれた。
THE WAY OF LIFE
傅巽の生き方
人の器を見抜き、先を言い当てる。傅巽は、堂々とした風采の奥に、冷静な観察眼を持つ人物像です。
大軍の前で意地を張るより、主家と人々が生き延びる道を選ばせた。構想の高さと、挑戦の低さに、その現実を見る目を重ねています。
持ち味と、その裏側
人物を見抜き、言葉にして伝える鑑識眼。龐統・裴潜・魏諷についての評は、のちの出来事と重なりました。場の空気を読んで、危うい同僚をそっと止める機転もありました。一方で、劉琮への降伏の勧めは、荊州を戦わずに明け渡したとして、後世には評価が分かれます。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜太和年間(227〜233年)
涼州北地郡泥陽県の人。字は公悌。前漢の義陽侯・傅介子の子孫。父は代郡太守の傅睿、弟は傅允。のちの重臣・傅嘏は、傅允の子にあたる。
- 『傅子』は、傅巽を「瑰偉博達(風采が立派で見識が広い)、人を見抜く目があった」と記す。三公の府に招かれて尚書郎となり、のちに荊州へ身を寄せた。
- 荊州では、龐統を「半ばの英雄」と評し、裴潜はいずれ清らかな行いで名を顕すと言った。龐統はのちに劉備に仕えて諸葛亮に次ぐ扱いを受け、裴潜は尚書令に至った。
- 建安13年(208年)、劉表が没して劉琮が後を継ぐと、曹操の大軍が迫った。東曹掾だった傅巽は、蒯越・韓嵩らとともに降伏を勧めた。「楚の地を守って天下を見ればよい」と言う劉琮に、傅巽は「臣が主に逆らうのは逆、新しい楚で中原に当たるのは無理、劉備で曹公に当たるのも無理。三つとも足りない」と説いた。そして「劉備に曹公を防ぐ力がなければ荊州は守れず、防ぐ力があれば、劉備は将軍の下にはいない」と言って、劉琮を降伏に踏み切らせた。この功で関内侯となった。
- 魏では散騎常侍となり、建安18年(213年)の曹操の魏公への推戴や、延康元年(220年)の曹丕への即位の勧めに名を連ねた。魏諷が才知で名を集めていたころ、傅巽は「必ず謀叛を起こす」と言い、その通りになった。
- 曹丕が帝位に就いたとき、蘇則は漢のために喪服を着て泣いた。のちに曹丕が「天命で禅りを受けたのに、泣いた者がいると聞く」と口にすると、蘇則は自分のことだと思って、ひげを逆立てて反論しかけた。傅巽はその蘇則をつねって「あなたのことではない」と小声で止めた。曹丕が言ったのは、同じく泣いた曹植のことだった。
- 侍中・尚書を務め、衛臻が冀州刺史に推したときも、曹丕は「傅巽はわが腹心の臣だ。帷幄の中で策を練らせたい」と言って、都から出さなかった。明帝の太和年間に没した。『槐樹賦』『蚊賦』などの作品も残している。兄の子の傅嘏は、のちに司馬氏のもとで重きをなした。
主な出典
『三国志』魏書 劉表伝とその注に引く『傅子』、同 文帝紀の注に引く『献帝伝』、同 蘇則伝、『後漢書』劉表伝
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
情勢を冷静に量り、筋道の立った結論を選ぶ姿から、規律はやや秩序寄りに置いています。
主家と荊州を戦禍から遠ざける進言や、同僚をかばう振る舞いが目立つ一方、自らの立身もそこに重なるため、動機は中ほどに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。