CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
何進
妹の威光で大将軍にのぼり、宦官誅殺に踏み込んで散った外戚
何進は、字を遂高といい、荊州南陽郡宛県の人で、何皇后の異母兄です。妹が霊帝の皇后に立てられると、侍中から河南尹へと進みました。中平元年(184年)の黄巾の乱では大将軍となり、近衛の兵を率いて洛陽を守ります。189年に霊帝が崩御して何皇后の子の劉辯が即位すると、袁紹らの勧めで宦官の排除を図り、地方の諸将を洛陽に召そうとしました。盧植・陳琳・曹操らや何太后は反対しましたが、同年8月、警戒せずに宮中に入ったところを宦官の段珪らの兵に囲まれ、嘉徳殿の前で殺されます。何進の死後、洛陽に入った董卓が実権を握りました。経歴は『後漢書』何進伝をもとにしています。
何皇后の異母兄。妹が霊帝の皇后になると大将軍にのぼり、黄巾の乱では洛陽の守りを担った。宦官の排除を図り、袁紹らと外の諸将を呼ぼうとしたが、参内したところを宦官に殺された。
THE WAY OF LIFE
何進の生き方
周りの意見に耳を傾け、流れに乗って動く。何進は、人を受け入れる広さと、決めきれない迷いを併せ持つ人物像です。
自分の足で立つというより、周りの力に支えられていた。決断と信条の低さに、その揺れやすさと、外から動かされやすい面を重ねています。
持ち味と、その裏側
立場を活かして、多くの人材や勢力を周りに集める広さと、洛陽の守備を預かる統率力。一方で、決断を先送りにして、味方や宦官の間で揺れ、最後は自分の無警戒が命取りになりました。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜中平6年(189年)
荊州南陽郡宛県の人。字は遂高。何皇后の異母兄。
- 荊州南陽郡宛県の人。異母妹が霊帝の皇后に立てられると、侍中となり、将作大匠・河南尹と進んだ。
- 中平元年(184年)、黄巾の乱が起きると、大将軍となり、近衛の兵を率いて洛陽を守った。慎侯に封じられた。
- 中平5年(188年)、霊帝が西園三軍を設け、自ら無上将軍と称し、宦官の蹇碩を上軍校尉に据えた。何進も、その指揮の下に置かれた。
- 中平6年(189年)、霊帝が崩御し、何皇后の子の劉辯が即位すると、十常侍の趙忠らは蹇碩を見捨て、何進に与した。
- 袁紹らの勧めで、何進は、地方の諸将を洛陽に召し、宦官の排除を図った。盧植・陳琳・曹操らは、この計画に反対し、何太后も宦官をかばって反対した。
- 同年8月、何進は、警戒せずに宮中に入ったところを、宦官の段珪・畢嵐らの兵に囲まれ、嘉徳殿の前で殺された。
- 何進の死後、袁紹らが宮中に入って宦官を粛清し、洛陽に入った董卓が実権を握った。『三国志演義』でも、何進は宦官の誅殺を図って殺される人物として描かれる。
主な出典
『後漢書』何進伝・皇后紀、『三国志』魏書 武帝紀・袁紹伝、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・中立
官職の筋より、妹の太后や周りの顔色を見て動く場面が多く、規律は裁量寄りとしています。
宦官を除いて朝廷を正そうとした面と、妹の威光で得た地位を守る面の両方が見えるため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。