CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
何皇后
屠殺業の家から皇太后にのぼった、嫉妬深い霊帝の后
何皇后は、荊州南陽郡宛県の人で、霊帝の皇后、少帝・劉辯の母です。『後漢書』は、生家は屠殺業で、賄賂を使い、宦官の伝手で後宮に入ったと伝えます。熹平年間に劉辯を産み、気性が強く、ほかの妃嬪から恐れられたといいます。光和3年(180年)に皇后に立てられ、のちに霊帝の寵妃の王美人を毒殺したと伝わります。189年に劉辯が即位すると皇太后として政に関わり、兄の何進が宦官の誅殺を図ると、宦官をかばって反対しました。董卓が少帝の廃位を迫ると、永安宮に幽閉され、李儒の毒によって、少帝とともに亡くなったと伝わります。経歴は『後漢書』皇后紀・何進伝をもとにしています。
霊帝の皇后で、少帝・劉辯の母。屠殺業の家の出と伝わり、のち皇太后として政に関わった。董卓が洛陽に入ると、少帝の廃位とともに幽閉され、毒殺された。
THE WAY OF LIFE
何皇后の生き方
守るべき座は、決して手放さない。何皇后は、強い意志と、身分の力を使う手際を併せ持つ人物像です。
強い気性と、身分の高さを重ねている。決断と規律の高さと、構想と挑戦の低さに、その押しの強さと、先を見通すより今を守る姿勢を重ねています。
持ち味と、その裏側
立場を守るためなら迷わず動く決断力と、皇后・太后という身分の力を使う手際。一方で、嫉妬や身内への肩入れが先に立ち、兄の何進と宦官の対立で、国全体の先行きを見通すことができませんでした。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜初平元年(190年)ごろ
荊州南陽郡宛県の人。父は何真、異母兄は何進。『後漢書』は、屠殺業の家の出と伝える。諡は霊思皇后。
- 荊州南陽郡宛県の人。『後漢書』は、生家は屠殺業で、賄賂を使い、宦官の伝手で後宮に入ったと伝える。
- 熹平年間に、霊帝の子の劉辯を産んだ。気性が強く、ほかの妃嬪から恐れられたと伝わる。
- 光和3年(180年)、前の皇后の宋氏が廃されると、何氏が皇后に立てられた。父の何真には、車騎将軍の位が追贈された。
- 光和4年(181年)頃、霊帝の寵妃の王美人が、のちの献帝・劉協を産むと、何皇后は嫉妬して、王美人を毒殺したと伝わる。霊帝は激怒し、廃位寸前になったが、宦官の取りなしで免れた。
- 中平6年(189年)、霊帝が崩御して、劉辯(少帝)が即位すると、何氏は皇太后として政に関わった。霊帝の母の董太后との争いにも勝ち、董太后は洛陽から追われて亡くなった。
- 兄の何進が、宦官の誅殺を図ると、何太后は、宦官とのつながりもあり、これに反対した。何進と宦官が相討ちとなり、洛陽に入った董卓が、実権を握った。
- 董卓は、少帝の廃位を迫り、何太后を永安宮に幽閉した。のち、李儒の毒によって、少帝(弘農王)とともに亡くなったと伝わる。
- 『三国志演義』では、李儒が毒酒を迫ると、これを拒み、幽閉の楼から突き落とされるという描写になっている。
主な出典
『後漢書』皇后紀(霊思何皇后)・何進伝、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・悪
皇后・太后という地位の権威を使って、政敵を退ける姿から、規律は秩序寄りとしています。
王美人の毒殺や、董太后との争いなど、自分の座を守る動きが目立つため、動機は個人寄りに置いています。善悪を断定するものではありません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。